習い事

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完結
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873sage
 金曜日の夜9時。中村知佳(29歳)は残業を終え、都内のある有
名ホテルへ足を踏み入れた。システムエンジニアである知佳は連日
の残業で疲れているにもかかわらず、これから始まろうとしている
週1回の習い事のことで頭がいっぱいだった。
874習い事
名前の入力間違えてしまいました。すみません。

 知佳はホテルの中に入るとフロントには向かわず、地下1階にある「FCS」と書いて
あるドアを開けた。中には10ほどの小部屋があり自分の名札がかかっている部屋に入る。
 そこには今日これから知佳が着用するヒーロー役の着ぐるみと面が置かれていた。
 今日が開講3回目となる知佳は、通勤着であるスーツとスカートを脱ぎ、慣れない手付
きながらも一人で着替えていった。「週末の夜、私は変身する…」
 最後に面を被り、鏡を見るとそこには普段とは全く違う自分がいる。しばらく自分の姿
を見つめたあと、準備の終わりを告げるチャイムを鳴らした。

 知佳は社会人8年目。身長170センチの細身のスタイル。胸はそれほどふくらみはないも
のの明るく知的な雰囲気で誰からも好かれていた。仕事も優秀で収入は申し分なかった。
しかし毎日の生活は平凡で物足りなさを感じていた。そんな夏のある日、彼女がたまたまテ
レビで見た炎天下の中でキャラクターショーの操演をしている汗だらけの女性たちの素顔を
見て、彼女の心は大きく揺れた。「私もやってみたい…」
875習い事
 しかし知佳には今の仕事を捨てることはできなかった。全く経験のない29歳では体力的に
も精神的にもやり通す自信を持てないのも無理のないことだった。また気恥ずかしさもあり
同僚や家族にもこの悩みを打ち明けることができなかった。

 そんなある日知佳は有名ホテルのHPで「社会人のためのFCS」という広告を見つけた。
 ・FCSとは「フライデー・キャラクター・スクール」の略称です。
 ・1週間の仕事を終えた後の気分転換として着ぐるみを演じてみませんか。
 ・毎週金曜日の夜の2時間はいつもと違う自分になれます。
 ・スクール終了後は快適なホテルで一夜を過ごし、ハードなレッスンの疲れを癒します。

 費用は5週連続の5回コースで20万円余りと決して安くはなかったが、着ぐるみ体験がで
き週末の混雑した通勤電車に乗らなくて済むということを考えると即決できる内容だった。

  彼女はヒーローショーコースのヒーロー役を選択した。女性用のメルヘンコースというの
もあったのだが甲冑姿になって怪獣を倒すという、男性向けのコースに魅力を感じた。
 初めての日、Tシャツの上にウルトラマンのようなウェットスーツを着たとき圧迫感を感
じ一瞬ためらった。何か自分を失ってしまうような気持ち。そして最後に面を被ったときは
視界の狭さと息苦しさと重さに驚いた。ただ手入れが行き届いた面に臭いはほとんどなく、
現場の経験豊富な講師の優しいアドバイスで、恐怖感は少しだけ減った。

 夜10時レッスンが始まる。稽古場にはヒーロー2人、怪獣役2人と講師は男女1人ずつだ。
「私と同じ考えの人が3人もいるんだ。中はどんな人なのだろう」と息苦しさを感じながら
も知佳は狭い覗き穴から必死に外の様子をうかがっていた。実はもう一人のヒーローも中身
は女性でスタイルを見るとなんとなく分かるのだが、知佳にそこまでの余裕はない。
877習い事
★873~875の小説「習い事」の続きです。
★あくまで空想で書いた話なので矛盾点もあると思いますがそこは大目に。
★こんなサービスが実際にあればすぐにでも行くのですが…

 このレッスンの修了目標は10分間のヒーローショーを、4人でやり遂げることである。
レッスンの内容は、費用を払っているにもかかわらず厳しいものだった。本来稽古は着ぐ
るみを着用せずに行うことが多いが、プライバシーを守るため当分の間は着ぐるみ着用で
の稽古を前提としていた。まずは決めのポーズ、テレビで見ていたときはそれほど難しく
感じなかったが腕の位置にまで注意される。もうこれだけで汗だくだ。なんだか足元に汗
がたまっている。気持ち悪い。「でもこれが私の求めていたものなんだ…」
 段々ヒーローとしての自覚が出てきた。不思議な感覚。あっ少し頭がクラクラしてきた。
怪獣役も一歩動くだけでも大変そうだ。1人は座り込んでしまった。

 ここで一旦休憩。講師は各自の小部屋に戻るよう指示を出した。各自のプライバシーに
配慮しているようだった。だが知佳はこのメンバーに仲間意識を感じお互いを知りたいと
思った。他のメンバーも同じ考えだったらしく、お互いの素顔を見せることになった。

 ヒーロー役のもう一人は、梅田純子(26歳)ショートカットでボーイッシュな感じだ。
 怪獣役の一人は、高木幸一(32歳)体格がよく、スポーツは万能とのこと。
 そしてもう一人は…村山優(29歳)会社の同僚である。

 知佳は優の顔を見て、恥ずかしくなってしまった。でも優は驚きながらも「格好いいよ」
と褒めてくれた。一方優は細身でいつも疲れた雰囲気で仕事をしている。しかも内気で段
取りも悪い。今日も怪獣の中で過労死してしまうのではないかと、知佳の方が心配するく
らいだった。
878習い事
 レッスン再開。台本にある動作をひとつひとつ覚えていくが、地面を転がる、怪獣にけ
られるなど知佳にとっては今までされたことのない体験が続く。怪獣役の2人はヒーロー
役が女性ということもあり蹴るときもだいぶ手加減してくれたのだが、講師は「思い切り
蹴れ」の一言。高木さんは梅田さんのことを思い切り蹴とばした。梅田さんは痛さをこら
えながら地面を転がっていく。知佳は優に蹴られるのかと思うとちょっと複雑な気持ちに
なったが、覚悟を決めた。しかし優は怪獣の足をうまく上げることができず、なんと自分
がバランスを崩してしまった。怪獣は一度倒れると自力では起きられないようだ。講師2
人がかりでどうにか起こす。2回目は弱々しい蹴りだったがバランスは崩さなかったよう
だ。蹴りがお尻にあたり知佳はちょっと感じてしまったのか「アッ」と声が出てしまった。

 2時間後…厳しいレッスンが終わった。顔は真っ赤になり汗が体中からしたたり落ちる。
スーツの中もぐっしょりである。空調が効いた部屋でもこれなのだから屋外での大変さは
気が遠くなりそうだ。本当はシャワーでも浴びたいのだが客室にしかシャワーはないとの
ことなので一旦通勤着のスーツ姿に戻り、すっぴんの顔でフロントでチェックイン。
 ここからは一人の宿泊者として週末の夜を楽しむことになるのだが、知佳の疲労は限界。
シャワーを浴びてベットに倒れこむとそのまま朝まで起きることはできなかった。ただ何
とも言えない充実感が知佳の身体の中にあふれていた。

 休み明けの月曜日、知佳は会社の前で優と挨拶を交わした。お互いぎこちない挨拶だが
 「FCSのことは2人だけの秘密」というのは暗黙の了解だった。優は相変わらず仕事
の段取りはイマイチで、デキる知佳にとっては目障りな存在だった。しかし厳しいレッス
ンを乗り越えた仲間でもあり、知佳の中で少しずつ優への評価は変わりつつあった。
879習い事
 こうして受講者4名でスタートしたFCSだがホテル側がHPを一新し、ヒーロー役の
コスチュームを公開したところ、近未来的なデザインが人気を博し申し込みのアクセスが
殺到し始めたのである。怪獣役のコスチュームは重厚感があり操演者の技量が一定以上あ
れば相当な恐怖感を小さな子供たちには与えられることができる物だった。そのため怪獣
役への応募も徐々に伸びていった。

 そんな中迎えた2回目。多少慣れたとはいえ29歳。体力はそれほど続かない。会社では
スマートに仕事をこなす知佳も、着ぐるみの中では大苦戦である。面の中から声を出し、
必死に自分を奮い立たせていた。面の空気穴から汗が落ちるという話も本当だということ
が分かった。優は1回目と比較すると動きが格段に大きくなっていた。先週のレッスンの
後、体力不足を痛感し1日30分のトレーニングを始めたそうだ。蹴りも力強くなり、知佳
の臀部にも強い痛みが走った。そのお返しとばかりに知佳は、怪獣役の優へ強烈なパンチ
を繰り出す。優は少しへ後方へよろけるものの先週のようには倒れない。腕を激しく振り
上げ怒っていることをアピールしていた。休憩中にも講師から厳しいアドバイスを受ける。
傍目から見ると厳しいレッスンだったが、レッスン後、鏡を見たところ、自分の想像以上
の凛々しさに知佳は驚きを隠せなかった。
880習い事
 3回目。小部屋で着替えが終わったあと部屋にあるブザーを押す。するとホテルの担当
者が迎えに訪れ、知佳を稽古場まで連れて行く。この担当者がFCSを企画したとのこと。
「新聞社の取材申し込みが来ているのですが、許可いただけますか?」
 知佳の心臓がドキンと鳴った。「これ、家族にも秘密なんだけどな…」

 担当者の話によると、外国からの宿泊者も多い有名ホテルが企画しているというのが話
題になっており、HPへのアクセスも伸び続けている。会社でもこのホテルのHPを見て
いる子がいたのを知佳は思い出した。
 「もちろんお客様のプライバシーが最優先です。でも知佳さんのような30歳・初心者が
立派に演じているのを知り、参加してみようと思う人もたくさんいると思うんです」
 「ねぇ知佳さんって、馴れ馴れしいわね。しかもまだ私20代よ」
 「もう一人のお客様とは思えないんです。中村様のヒーロー姿、とても素敵です」
ちょっと担当者の視線がいやらしいが、知佳はまんざらでもなかった。何よりもこの担当
者の企画があったからこそ、こういった経験ができたのだ。思いがけない話を聞いて知佳
のヒーロースーツの中は既に汗まみれである。

 今日は2人ずつのグループに分かれて、他の2人の演技を見ることになった。まず初め
に高木さんと梅田さんの演技を見る。特にヒーロー役の梅田さんの動きを見ると、まさに
全身全霊を使っている。あと怪獣役の高木さんの攻撃も全く手加減がないのに負けてない。
このあと私の演技を2人に見せるのかと知佳は落ち込んでしまった。その気持ちに気付い
たか優は「気持ちだけは負けないで行こう」と励ます。
 知佳と優の出番になった。前の2人を意識して最初から激しいアクションをしてしまい
後半はほとんど動きが止まってしまった。知佳の視界からわずかに見えていた外の景色が
段々真っ暗になっていく。「私、このまま死んでしまうかも…」
 
 それでも身体だけは動き続け、最後まで演じ続けた。優も似たような状態だった。
 もう汗まみれや面の中の蒸し暑さなどは気にならなくなった。少し自分が強くなった気
がした。講師は「2人の演技はまだまだ。でも気持ちは前の2人に負けていませんよ。」
と評価してくれた。そして最後に来週の新聞社取材についての説明があった。マスクを外
す場所だけは気をつけてくれればいいとのことだった。
881習い事
 レッスン後…知佳はホテルの担当者に小部屋まで同行してもらった。そして被っていた
面を担当者の前でわざとゆっくりと外す。汗が滴り落ちる。「どう、素敵?」
  いかにも息苦しそうな感じな知佳の言葉と汗の香りに、担当者の目は幸せいっぱいの感
じだ。知佳にもプロに近いサービス精神が芽生えてきたようだ。しかし最後に知佳は
「これからはあまりいやらしい視線でレッスンを見ないでくださいね。これでもちゃんと
分かるんですから。受講するお客さんに嫌われますよ」と釘をさすのも忘れない。
「以後気をつけます。でも知佳さん素敵ですよ。大ファンです」
「ムフフ、私もあなたのこと嫌いじゃないわ」
 
 4回目。記者さんが取材に訪れレッスンを見学。今日も怪獣役の優とコンビを組んでの
練習だ。優の動きはすっかり怪獣そのものだ。初回の頃のように少し押しただけで倒れる
こともない。仕事ぶりも明らかに変わった。前はトロトロしていた仕事も見違えるように
こなすようになり、社内では「何かいいことがあったに違いない」ともっぱらの噂だ。

 練習後の取材では、マスクオフの正面からの撮影は断ったが、横からの撮影に知佳は応
じることにした。知佳を知っている人が見れば気付くかもといった感じだ。29歳のシステ
ムエンジニアが暑く息苦しい世界に身を投じていることを文書と写真で伝えたいらしい。
記者も演技後の着ぐるみがマスクオフする瞬間を見るのは初めてらしく、男性のカメラマ
ンの視線は明らかに仕事をしているときの目ではなかった。ふと横を見ると優の目も…。

「なぜこの講座を受けてみようと思ったの」
「一度は経験してみたいと思っていたから。でもアルバイトの体験談を聞くときつそうで
私にできる仕事とは思えませんでした。でも習い事なら甘えも許されるかなと」
「でもレッスンの内容は厳しいよね。知佳さんも苦しそうだったし」
「苦しいのは確かです。でも好きでやっていることだし、最近は汗をかくのも快感です」
「体験してみて気付いたことがあれば教えて下さい」
「初めての人にとって1回目のレッスンの衝撃度はすごいということ。そしてもうひとつ
男性は女性のマスクオフの姿を見ると萌えてしまうようです。ねぇ優君、カメラマンさん。
でも2つ目の意見は新聞には載せない方がいいですね」
882習い事
 いよいよ最終回となる5回目。このヒーロースーツと今日でお別れということで知佳は
少し寂しい気持ちだった。そんな中講師から重大な発表があった。内容はこの前取材を受
けた新聞記事が掲載されたあと、ぜひヒーローを生で見たいという電話が殺到している。
それなので明日の午後、卒業公演をホテル内最大のパーティールームで開催することが決
まったとのことだった。

 練習が始まった。当然梅田さんと高木さんの演技は文句なし。いつ本番でも大丈夫だ。
しかし知佳は自分の動きに自信が持てなくなってしまった。梅田さんの演技が余りにもキ
レがありビデオで自分の動きを見ると見劣るのは確かだった。優の動きも高木さんの動き
とは全く違う。でもいくら頑張っても、息苦しくなってしまい後が続かない。

 2時間の練習後も二人は残って練習を続けた。足元には汗水がたまり、ヒザはアザだら
け。体重も3キロ減った。肩を激しく動かし呼吸するのも大変だ。優は気持ち悪くなって
吐き出してしまった。でも少しでもいい演技を見せたいという気持ちは忘れなかった。

 そしていよいよ発表会の控え室。緊張に震えていた知佳に高木さんと梅田さんが声をか
けた。「知佳さん。演技の上手い下手はあまり関係ないのよ。動きを大きくすることを忘
れないで。私たちと同じ練習をしてきたんだから自信を持って」

 まずは優と知佳が登場。500人くらいいるようだが照明が眩しくててよく見えない。
とにかく一つの動きをしっかりと大きく演じる。観客の声援がだんだん大きくなる。怪獣
役の優は照明からの熱で中はすごいことになっているようだ。動きが少しおかしい。フラ
フラしている。知佳も喉がカラカラで声も出せない。そして体力の限界か優も知佳も立っ
たまま動けない。知佳が必殺技を出さない限り、優も倒れることができないのだ。
883習い事
 そんな中「知佳、ファイト!」という声が聞こえた。すると「知佳、知佳」とコールが
部屋中に沸き起こった。そういえば新聞記事にはヒーロー役の1人は29歳のシステムエン
ジニアの知佳さんと書いてあった。恥ずかしさをこらえ、必殺技の光線を繰り出す。そし
て怪獣役の優は力なく倒れていった。その後の高木さんと梅田さんの演技はプロそのもの。
子供たちも大満足のようだった。

 全てが終わったあとは、お客様の見送り。
「知佳お姉ちゃん格好いい」と子供。知佳は頭をなでてあげた。
「新聞記事読みました。私も頑張ります」と知佳と同年代のお母さん。握手を交わす。
「知佳ちゃんの正面からの写真見てみたいな」とちょっとナンパ気味なお父さん。知佳は
お父さんに顔を近づけ「奥さんの方がステキですよ」と一言。そしてウィンク。お父さん
はデレデレだ。演技はイマイチでもサービスはプロ級になったようだ。

 控え室に戻り知佳は面を外し、ヒーロースーツを脱いだ。もう着ることはないと思うと
涙が出てきた。優も全てをやり終えたという満足感でいっぱいのようだ。「お疲れさま」
と知佳は優に声をかけた。そして高木さんと梅田さんには「ありがとうございます」。
 そしてホテル担当者から知佳と優に今晩のホテルのペア宿泊券が渡された。
「今晩、優さんと一緒に使ってください」
「こんな高い部屋、いいんですか」
「今晩は空いてますし、この前のマスクオフを見せて下さったお礼です」
「ナンだよ、この前のお礼って」と優が不審な顔をした。
 実は優はホテルの担当者に、知佳と一緒に泊まれるよう手配をしてもらったらしい。
 2人は部屋に入ると、疲れが一気に出たのかお互い倒れこんでしまった。
「知佳、早く必殺技で倒してくれないと。俺ホント辛かったんだぜ」
「身体動かなくなってさ。ごめんね」と言って知佳は優に抱きつく。
「オレは怪獣だよ。どうなるか分かってるよね、知佳。」
 でもお疲れの二人はそのまま眠りについてしまったのだった。
884習い事
以上です。最後まで読んでくださった方ありがとうございます。
894習い事
たくさんの感想ありがとうございます。

確かに名前の読み方迷いますね。失礼しました。
「ちか」と「ゆう」が正解です。名前の付け方以後気をつけます。
895習い事
感想にもありますが、ひとまず完結できてよかったです。

途中で掲載したい気持ちは分かりますが、完成させてから発表の方が楽です。
レッスン5回でなく3回にすればよかったと何度も思いました。

知佳がホテルの担当者を手玉に取るあたりからは一気に書き上げました。
ちょっと自分も知佳にハマってしまったかも。