無名のお人形さん(仮)

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324名無しさん@着ぐるみすと
「ねぇ…、もういいでしょう?」
私の不満声が面の中で声が響く。
「もうちょっとだけ」
武雄がデジカメのメディアを換えながら、もう仕分けなさそうに言ってくる。
季節は春。窓から心地よい風が入ってきて、白いレースのカーテンを青空に揺らしている。
でも私には、肌色の全身タイツ=武雄が言うには「肌タイツ」というらしい=を通してしか感じられない。
あ、面の隙間からも入ってくるかな。
せっかくの日曜日、珍しく車で来た彼を見て、てっきりドライブにでも連れてってくれるかと思って喜んでいたら、着ぐるみ一式の荷物を積んでいたからだったのだ。
そりゃ、以前に遊園地でキャラクターショーって言うヤツ? それを観て、「あたしもあんな可愛い着ぐるみ着てみたーい」って言ったよ?
言ったけどね、でも…。
「由佳ー、着ぐるみを持ってきたぞー」
って、いきなり持ってくるか? ていうか、どうやって手に入れたのよ?! ネットで売ってるところがあって、早速買った?! 行動早いなー。…いやいや、マジで買ってんじゃねーよ!
…と、頭のなかがグルングルンしてパニクっちゃった。
「着たいって言ってたから、買ってきたぞー」と武雄。
…私のせいらしい。
「高かったんじゃないの?」
思わず聞いてしまう。
「そうでもないよ」
武雄はたまに考えなしで動くところがあるけど、その正体はカリスマ美容師で、お店を都内に3っつ構えている。
だから少々高い買い物でも即金で買えると思う。
でもねえ…。
「今…、着るの?」
おそるおそる聞く私。
彼が買ってくれた3LDKのマンションのベランダ越しのダイニングに、武雄が買ってきた着ぐるみ一式が並んでいる。
遊園地でみたキャラクターではなかったけど(後で聞くと、オリジナルのキャラクターだった)、あれに負けないくらい可愛かった。
ピンク色のロングの髪の毛に、あどけない少女の笑顔のお顔をしたお面に、肌色の全身タイツ、どこかで見たことのある衣装(日曜の朝にやってるアニメキャラの衣装だった)の3点。
「出来れば、早く見てみたいかな」
照れながらそう言ってくる武雄。
私はお面の裏側を見たり、髪の毛や顔の表面を撫でながらそれを聞いていた。
ん…、まあ、着てみても…いいかな。
お面を見ていると、ちょっと胸の奥がキュンと鳴ったのだ。
だって、本当に可愛いんだもん。
恥ずかしながら、私ももう26歳。
可愛い格好をするには、ちょっと…な、お年頃である。
そんな年齢の女が可愛い格好をするのはイタイけど、着ぐるみとなれば別である。
だって、着たら私って判らないじゃん?
…いやいや。
私は首を振った。
気楽でいいんだ、別に可愛い格好をすることにせっぱつまってないんだから。
そうして、私は着替えを始めた。
…せっかくのお化粧を落とさなきゃいけなかったけどね。
325名無しさん@着ぐるみすと
ごめん、しょっぱな訂正
>「ねぇ…、もういいでしょう?」
>私の不満声が面の中で声が響く。

私の不満声が面の中で響く。

です。
327名無しさん@着ぐるみすと
さて…と。
化粧を落として、戻ってくる。
「どうやって着るの?」
肌色の皮のような全身タイツをぴろんとさせて持ちながら、武雄に尋ねる。
「ん…、俺もよく判らないんだけど、とりあえずその肌タイから着てみてよ」
「下着になった方がいいよね?」
「うん」
肌タイを抱えて、とりあえずバスルームに向かった。
武雄の前で着替えてもいいんだけど、そこはまあ、恥ずかしさを見せないとね。
バスルームのカゴに肌タイを投げ入れ、ローライズのジーンズ、ブラウスとTシャツを順々に脱いでいく。
そしてまずは脚から通していった。
パンスト履く時と変わらない。そして次に左手を通す。
手首辺りで手が止まってしまった。結構のびる生地みたい。
レオタードみたいにテカテカしてなくて、水着生地ほど分厚くないその生地は、なかなか肌触りが良かった。
わほ、ちょっとクセになるかも。
右手を使って、左手を手袋の中に通す。そして指を一本一本指先に通していった。
そして右手も同じように通し、最後に顔を入れる。
ふと洗面所の鏡を見てみた。
当然、全身肌色の人間がそこに写っている。
テレビのバエラエティ番組でよく見る格好だ。
「ぷっ…」
思わず吹き出してしまった。
…とと、背中のファスナーを閉じなきゃ。
ショートヘアの髪の毛を肌タイの中におさめる。
そして背中に腰から手をまわして、背中の下当たりまでスライダーを引き上げた。
最後に背中から手を…、手を…。
「いたた、つったつった!」
慌てて手を離し、全身伸びをして筋肉をほぐした。
…体固いな~あたし。
何度かチャレンジしてみるけど、手袋越しだとスライダーがうまくつかめない。
気付くと息が上がって、汗をかいていた。
…着る前から疲れててどうするんだ。
ふと鏡を見てみた。
全身肌色の宇宙人が、困った顔をしていた。
情けなくなってきちゃったよ…。
「大丈夫か~?」
武雄が心配そうな声をかけてくれる。
洗面台の置き時計を見ると、もう20分も経っていた。
仕方なく、洗面所から出て武雄に最後の部分を引き上げてもらう。
「ごめ~ん、ファスナー閉じるの手伝って」
「…、あ、おっけー」
「今、笑ったでしょ?」
洗面所から出てきた私を見て、武雄の口元が一瞬膨らんだのだ。
「いや、別に」
「絶対笑った」
確かに笑えるけど。
「ごめん」
「…もう、ここから引き上げてね」
ちょっとすねた顔をして、武雄の前に後ろを向いて立った。
そして止まったスライダーの位置を指差す。
「それじゃあ、上げていくよ」
178cmある武雄は、私が立っていても難なく頭の上までスライダーを引き上げてくれた。
背中、首、頭がきゅっと締まっていく。
「出来たよ。きつくない?」
ちょっと動いてみる。
ぴっちりしてるけど、きついという感じじゃない。
どちらかというと、肌がこすれて気持ちいい。
ブラのワイヤーが固いので、それが肌に食い込むのがちょっと不快だった。
スポーツブラにしとけば良かったな。
「うん、大丈夫」
「おっけ、じゃあ次は衣装を着てみて」
次に武雄から、アニメのコスチュームを渡される。
328名無しさん@着ぐるみすと
「これ、コスプレっていうんだよね?」
特に意味も判らずに武雄に呟く私。
コスプレって、テレビや駅前でたまに見る、仮装する人たち何だよね?
「そうなんじゃない?」
武雄もよく判ってないようだった。
「着ぐるみは違うような気もするけどね」
衣装は透明の袋がかけられていて、武雄がそれをてきぱきと剥がしていく。
白いワンピースに、ヒラヒラの青いレースが裾や袖口についている。
同じ色合いの手袋、ブーツ、あと青いベルトやリボンがいろいろある。
…これも高いんだろうなあ…。
普通に私に服買ってくれよぉ…と内心思ってしまう。いやまあ、ちゃんと記念日とかには買って貰ったりしてるけどさあ。
そのアニメのチラシを見ながら、二人であれやこれやしつつ着ていく。
とりあえず服も着れた。
リボンのバレッタは、髪型がアニメとは違うので(アニメはアップテールで、お面は普通のロングヘア)髪の毛の後ろに付けてみた。
…うっ、可愛い。
お面を手に取って、まじまじ見ながらにやけてしまう私。
自分が被るよりも、誰かに被って貰って見てみたいと思った。
そして思いっきりギュ~って、抱きしめちゃったりして…。
「そろそろ被れる?」
…妄想中の私は、武雄の声で我に返った。
「うん、えーと…」
お面の中はスポンジが何か所か貼付けられているだけで、結構空間があった。
お面の目のところに視界用の小さい穴が無数にあり、笑った口にも呼吸用らしい穴がある。
呼吸用には薄い黒い布が張られていて、そとから見えないような工夫がいろいろされているのが判る。
とりあえず被ってみる。
ガサゴソと耳から音が入ってくる。
そして被り終えたけど、視界がピンク色に染まっていて見えない。
「前が見えない~」
視界が小さい穴ばかりだったので、合っていないのかな?
「髪の毛が前に被っているんだよ」
あ、うつむいて被ったからだ。
武雄に髪の毛を直してもらう。
面が緩いので、面ががくがく揺れるたびに私もふらふらと揺れてしまう。
やがて、視界が急に明るくなった。
「見えた見えた!」
視界の穴は、小さい穴の集まりが合わさって一つの視界になっていて、すごく良く見える。
呼吸も全然苦しくなかった。
面も手に取った時ほどの重さは感じない。
外の音が少し遠くなって聞こえ、自分の呼吸音が面の中に響く。
フルフェイスのヘルメットを被ったときみたいな感じだった。
329名無しさん@着ぐるみすと
「苦しくない?」
武雄の顔が見える。
視界の穴を通してみてるので、ちょっと不思議な感じ。
夢を見ているときみたく、視界の周辺がちょっとボヤけた感じだ。
「うん、大丈夫」
着終わってから、ちょっといろいろ動いてみた。
面が緩いのがちょっと気になったけど、動きづらいというイメージがあったので、驚いた。
遊園地のショーなんかで、着ぐるみ着てるのによく跳んだり跳ねたり出来るなあと思っていたけど、なるほどこれなら動きやすいわけだ。
「こっち向いて~」
武雄の声がしたので、そっちを向く。
デジカメをこっちに構えていた。
慌てて女の子っぽい仕草を取る。
「顎が上がってるから、ちょっと引いて。…もっと、うん、おっけー」
武雄の胸辺りが見える位置になってから、フラッシュが光った。
「あ、フラッシュ点いちまったか…」
武雄が舌打ちする。
「カーテン開けた方がいいよね」
窓に寄り、カーテンを開ける。
春の晴れた日差しが入ってくる。
着たとたんにちょっと暑くなってきたので、窓もあけて見た。
ベランダの向かいには建物がないので、部屋の中が外から見られないのが、ここを選んだ理由の一つ。
眼下には市民グラウンドがあって、子供たちの遊ぶ声が時折聞こえる。
…いい天気だよお、出かけたいよお…。
急に着ぐるみしてるのが嫌になった。
んでも、着ちゃったからには仕方ないので、ちゃっちゃと武雄の気の済むまで相手して、昼過ぎには外に連れ出してやる!
「あ、そのままこっち向いて」
武雄がまたデジカメを構える。
窓際というシチュエーションで撮りたいみたい。
束ねた白いカーテンに寄りかかる私。
と、武雄が顎を下げるような仕草をする。
そだそだ、顎が上がってるんだった。
難しいなあ…。
「おっけ、…うん、いい感じ」
「どんな感じ?」
取り終わった武雄に近寄って、デジカメのモニターを覗き込む。
「かわいい!」
思わず歓声を上げてしまった。
だって、本当に可愛いのよ! お人形さんが写っているんだもん!
「へ~、あたし今こんな感じなんだ!」
私は遊園地で見たショーに出てる着ぐるみと同じになれたことに感激していた。
「鏡で見てくる!」
そして洗面所に向かう。
そして鏡を見て見る。写真と同じお人形さんがいた。
…顎が上がってたけど。
かといって下げると見えない。
面を手で支えて上に上げると視界が合う。
意識した仕草じゃなかったけど、鏡には顎に手を当てて恥ずかしがるようなお人形さんがいた。
「かわいい~…」
けど手をずっとこのままにしておくわけにもいかず…。
あ~、もどかしい!
ふとタオルが目に止まった。
これを面に詰めれば、緩いのが直るかもしれない。
一度脱いでから、タオルを折り畳んで面の頭に詰め、もう一度被りなおす。
髪の毛が顔にかかったので、鏡を見つつ直していった。
今度は視界が合った。お人形がちゃんと自分を向いている。
ちょっと顎がきつくなったけどね。
332名無しさん@着ぐるみすと
自分の目でちゃんと見られるようになると、お人形から急に人間になった気がした。
表情こそ変わらないけど、ちょっとした動きが人間っぽいわけだから、妙に生々しい。
いろいろ動いてみる。
ピンクのロングヘアーに青い瞳という色の取り合わせが、とても似合っている。
頬にもちゃんと頬紅のような色が塗られていて、あどけない笑顔が引き立っていた。
「…うふっ」
お面の表情のように、私自身もにっこりと笑った。
「どうだい?」
鏡に、武雄が洗面所の入り口から顔を覗かせているのが映っていた。
「あわっ!」
一人の世界に入っていた自分に気付いて、私は慌てて普通を装った。
そいやドアを開けたままだったので、最初から全部見られていたかも…。
恥ずかしい~!
「どう? 可愛いだろ?」
「う、うん。 ところでこの子、名前なんて言うの?」
鏡を指差して尋ねる私。
「オリジナルだから、名前はまだ無いよ。作ってるところで聞いたら、持ち主で名前を決めることが、娘さんを愛するためにも必要だって…」
「娘って?」
「あ、いや、その子の事だよ」
何かマニアックなワードが出たので、ちょっと戸惑った。
そりゃ女の子の着ぐるみだけど、娘ってあーた…そいやドール好きな友達も、持ってるお人形さんを娘って読んでたなあ。
味気ないよりはいいか。
ふと、私はまた鏡を覗き込んでいた。
フラッシュが光った。
うわ、いきなり撮るかよ。
デジカメを構えている武雄が映っている。
「いい感じー、前髪をちょっといじるような感じをやってみて」
「こう?」
言われた通りに、前髪を中指で軽く分ける仕草をしてみた。
何だろう、ショーの出番待ちで髪の毛の確認をしている感じなのかな?
てな感じで、自分の中でストーリーを組み立てていた。
ふと歯ブラシがあったので、歯を磨くような仕草を取ってみる。
「ははは! おーけー」
…受けた。
次にドライヤー持って、セットする仕草。
出番待ちというより朝起きてきた感じだ。
衣装がアニメのキャラなので、もうわけが判らない。…面白いけど。
「んじゃ、部屋に戻ってきてよ」
ギャグっぽくなってきたので、笑いながら武雄が手招きした。
いつまでも洗面所で撮ってるわけにはいかないので、ダイニングに戻ってきた。
「そうだな、とりあえず座ってみてよ」
言われるがまま、正座する私。
「もっとこう崩して、女の子がよくやってる座り方…、そう、お尻をぺたんと。うん、いい感じだ」
「こうね」
「おっけ、んでさらに上を見上げて、右手を顔に…、人さし指をほっぺにあてて首を傾げてみて」
「こ、細かいな…、こう?」
「おっけ、すごく可愛いよ!」
急にカメラマンのようになってきた武雄。
目が真剣になっていた。
あ~、でも、これ可愛いだろうなあ…。
今の自分を外から見た様子を想像して、また胸がきゅんと鳴った。
こうなると私もノッてくる。
脚を抱えたり組んでみたり、クッションを抱えてみたり…。
猫のように伸びをしたりもしてみた。
気が付くと、近くの工場の休憩のチャイムが鳴っていた。
昼の一時に鳴るチャイムだ。
…えっ!
いつの間にか、1時間が経っていたことに驚いた。
ずっと着っぱなしだったことにも驚いた。
まだまだ着れなくもないけど、このまま家で着ぐるみを続けるなんて嫌だ!

「ねえ…、もういいでしょう?」
私の不満声が、面の中に響いた。
333名無しさん@着ぐるみすと
「もうちょっとだけ」
デジカメのメディアを取り出し、新品のメディアを箱から取り出してまた入れる。
…そのメディアも着ぐるみを撮る為に買ったんだな。
床に寝そべった今の私は顔こそ笑っているものの、すねた猫のようにふて寝していた。
晴れ空が遠い、、、。
「早く出かけたーい!」
思わず叫んじゃった。
面の中でこだまして、うるさかった。
「う~ん、そうだな。じゃ、出かけよう!」
「…えっ!」
ガバッと跳ね起きた。
「せっかくいい天気なんだから、外に行かないとな」
何だ、武雄も判ってたんじゃない!
早速お面を取る私。
「ふう~」
汗を手の甲で拭うと、濡れた部分の色が変わった。
「疲れた?」
タオルを渡してくれる武雄。
「ううん、あまり動いてなかったから。暑かったけどね」
タオルで顔を拭きつつ、一仕事終えて満足そうに私は笑った。
「んじゃ、ちょっと休んだら出かけようか」
武雄が私が顔を下にして床に置いたお面を手に取り、顔を上にして床に置く。
顔に傷がつかないようにしているのかな?
「うん」
立ち上がって、衣装を脱ぎ出す私。
「あ、違う違う! 着たままで出るから」
慌てて武雄が止めに入る。
「…え?」
「今度は外で着ぐるみをするんだよ」
私もピタリと止まる。
…何ですと? 着たまま出る? 着ぐるみのまま? 何で? ショーでもやるの?
また頭の中がグルングルンしてきた。
「えーと…」
そいや頭が軽くなったので、首を廻してコリをほぐす。結構音が鳴った。
そして肩をしばし揉む。
「…え?」
あ、さっきのは幻聴なんだと思えてきて、もう一度同じ声を私は出していた。
「着ぐるみのまま外に出て、撮影しよう」
丁寧に説明された。
「天気がいいから、きっと良い写真が撮れるよ」
…いや、ま、撮れるでしょうけど!
「そんな、恥ずかしいじゃん!」
月曜の平日とはいえ、外に出たら人目につくわけで。
「恥ずかしくないよ、由佳は顔が見られないんだから」
た、確かに。
「武雄は恥ずかしくないの?!」
「恥ずかしくなくはないけど、傍目には撮影の仕事をしてるようにしか見えないって」
どんな仕事なんだ。
…うわーん、せっかく外に出られると思ったのに~。
「由佳は学祭でミスコンにも出てたじゃん。人前に出るのに慣れてるだろ?」
お、丸め込みにきたぞ…。
「そりゃ、まあ、それなりの場所でそれなりの格好してれば平気だけど…」
「だろ? なにも街中に連れ出して撮るわけじゃなくて、ちゃんと景色のいいところで撮るからさ。だからお願いっ!」
手を合わせる武雄。
彼の懇願というものを初めてみた。そっか、立場は私の方が上なんだよね。
「ふーん…。それって、遠出してくれるわけ?」
腕を組み、武雄の顔を見上げる私。
「そうだなあ、由佳が行きたがってた甲府の方に行くか」
「ほんと? やったあ」
甲府のワイン工場に行きたいと、この前言ったばかり。
「んじゃ、準備するね」
着ぐるみで工場にまで行くわけには行かないので(当たり前だ)、時間的にも行く途中で撮影を終えて、着替えたあとに工場に行くことになった。
私と武雄の両方が満足出来るプランだ。
お泊まり用の大きめのトートバッグに着替えや化粧道具諸々を詰め込み、準備を整える。
「そいやお昼過ぎてるし、ご飯どうしよ?」
「ドライブスルーで買うか」
「えー、私が横で着ぐるみしてるのにー?」
てな感じで、はしゃぐ私達だった。
この後、車に乗るまでに一苦労があることも知らずに…。
336名無しさん@着ぐるみすと
「…おっけ、今なら誰もいないよ」
カメラバッグと私のトートバッグを担いだ武雄が、玄関のドアから顔を引き戻して私に伝えた。
「わかった」
やっと武雄とドライブに繰り出せると喜んでいたのだけど、今の私は日常じゃあり得ない姿になっている。
玄関で、名前のついていない女の子の着ぐるみを着ていた私は、コクリと頷いた。
ふと出る間際に、玄関脇の身だしなみ用の鏡が目に入る。
そこには、ピンク色のロングヘアーに青い瞳のお人形さんが写っていた。
これが今の私の姿なのだ。
お人形さんはニッコリと鏡の中で私に微笑んでくれているんだけど、その中には不安で一杯の私がいる。
…本当に、こんな姿で外に出るんだ…。
ドクンドクンという胸の鼓動が、面の中に響いちゃってる。
こんな姿で他の人に見つかっちゃったらどうしよう。きっと変な人に思われると思う。あ、でもそういう仕事してる人なのかな?って思ってくれるかも…って、家の中からその姿で出勤するわけないじゃん!
あああ…、またグルングルンしてきたよぉ…。
ええい、私の顔はバレないんだし、覚悟を決めるか!
おし! と気合いを入れた仕種をして、武雄にウン!と頷いてみせる私。
彼も頷き返す。悩んでグルングルンしてる私を不安そうに見ていたのだけど、笑顔が戻ってくる。子供のような悪戯っぽい笑顔だった。
…見つかることを期待してるんじゃなかろうか…。
とりあえず自分でもドアから左右を見回してみて、誰も居ない事を確認してから武雄の背中にピッタリとくっついてマンションの廊下に躍り出る。
私の家からエレベーターまでの距離は20メートルくらいで、途中に2軒の玄関のドアがある。
平日の昼間なので、まずは誰も出て来ないと思う。
後ろにもドアが4つ並んでいるので、彼の背中に手を当てながら、時折振り返ってみる。
通路の窓ガラスからは、晴れた外の世界が広がっていた。
ただでさえ遠い地面が、今はいっそう遠くに見える。
…何分後かには、私はあそこに降り立っているのよね。
予想通り、エレベーターの前までは何なく辿り着けた。
「…誰も出て来なかったね」
武雄がエレベーターの下向きのボタンを押しながら呟く。
それでいいんだっての! やっぱり期待してたんだ! くそお~、今からでも帰ってもいいんだぞー! んでもドライブも無しになるのは嫌だな~。
…とりあえず背中をつねっておいた。
337名無しさん@着ぐるみすと
左右2基のエレベーターは1階と最上階の28階に待機していた。
目指すは地下一階の駐車場だ。
18階へは右の最上階の方のエレベーターが降りてくる。
25、24、23…。
心の中で早く降りて来いと祈る。そして、途中で止らないで!
変化の無かったエレベーターの窓の中の景色に、重り垂れたロープが見えてくる。
もうすぐ到着する。早く、早く!
そして窓に明かりが入った。
一応武雄の背中に隠れる。
「大丈夫、誰もいないよ」
…ほっ。
そして乗り込む私達。
武雄を窓側にして、相変わらず背中に隠れている私。
彼と背中合わせになり、反対側の壁に設置されている鏡(車椅子用に設置されているということを最近になって知った)に向かって私は立っていた。
鏡があると、ついついそっちに向いて立ってしまう癖は、お人形さんになっても変わるわけが無い。
ドアが閉まり、動き出す。下からのGがかかり
こんな状況なのに、衣装を含めた上半身全体を見ると可愛いと思ってしまう。
「急に喋らなくなったね、緊張してるの?」
エレベーター内の空調が動く音しか聞こえない静寂の中で、武雄が聞いてくる。
「緊張してるに決まってるでしょ!」
鏡に写る武雄の後ろ頭に向かって、答える私。
「あはは、てっきり遊園地のキャラクターに成りきってるのかと思ってたよ」
武雄も後ろを向く。
…そういえば、遊園地等で見かける着ぐるみは、何故か喋らない。
もちろんアニメの声優が中に入ってるわけじゃないので、違う声を出されると違和感があるとは思うけど、それ以外の場所で見かける着ぐるみも、喋っているのを見かけたことは余り無いように思える。
心のどこかで、「着ぐるみは喋っちゃ駄目」みたいな意識が働いていたのかも。
一度だけ、商店街の青いウサギの着ぐるみが小学生の男の子達に蹴られて虐められてる(それはそれは見事な飛び蹴りだった)ときに、「コラー!」っと男の怒鳴り声がお面の中から聞こえたのを見たことがある。
小学生達が着ぐるみが喋ったことに対し、勝ち誇ったかのように喜びながら逃げていってた。ああいうのって、憎たらしいよね。
…私も子供に飛び蹴りされたらどうしよう。
武雄が必ず守ってくれるけどね。ていうか、大きな武雄がいれば、まず近付かない気がする。
武雄がお面越しに頭を撫でてきた。
「名前付けてあげたいな…」
お面越しとはいえ、何か嬉しい。
身も心も女の子になった気分。
って、私を撫でてるんじゃないのかこれは。このピンクの髪の女の子を撫でてるんだ。
目が優しい。…間違い無く、中身の私のことは意識にないようだ。
複雑な気分だったけど、普段ならこんな感じで頭を撫でてくれることはまず無い。
私が喋らないので、今の私はいっそうお人形さんっぽくなってることが彼の琴線に触れているんだと思う。
…いいわ、今はお人形さんに徹してあげる!
そのかわり、ワイン工場に着いたら貴腐ワイン(最高級ワインに多い、貴腐菌で作られたワイン)の高い奴から順々なんだから!
などと、ほっぺを撫でられながら企む私。
338名無しさん@着ぐるみすと
武雄のその手を両手で包み、顔をすりすりさせる。
「可愛いよ…」
武雄も嬉しそう。
こんなんで嬉しがってくれるなんて、着ぐるみっていいなあ。
このまま二人とものっていきそうな雰囲気になったとき、上からのGがかかってきた。
あらら、もう下まで着いちゃったんだ。
鏡に写る階数表示は…2! じゃない、5だ!
え! と凍り付いて鏡を見る私達。
武雄も驚いて目を丸くしていた。
私の胸元に手を入れかけてる姿が写っていて、私はさらに驚いた。
…それはやり過ぎだろ。
武雄がとっさにドアの方向に向く。
そして後ずさりしながら私を隅に追い立てる。
私は三角形の隙間に潜む形になった。
誰かが乗り込んでくる。
「マーマー! ボタン!」
うわ、子供もいるよ!
とたとたという小幅な軽い足音も聞こえる。
「早く押さないと迷惑がかかるから、ママが押すわね」
「あー! 駄目ー!」
女の子の声だ。まだ小さいみたい。
うんうん、子供ってボタンを押したがるのよね。…て、そんなことを考えてる場合じゃない!
ドアが閉まり始める。
するとバンバンとボタンを叩く音がした。
「あ!」
「こら!」
武雄の動揺する声と、母親が叱る声が聞こえた。
な、何が起きたの?! 子供が転けちゃった?
「降りない階のボタンを押しちゃ駄目じゃ無いの!」
…え?
339名無しさん@着ぐるみすと
「すみません…、ほら、あっちゃんも謝りなさい!」
「ごめんなさい」
「いえ、気にしなくていいですよ」
母親と女の子が武雄に謝っている。
エレベーターはすぐに止った。
多分、ここは3階くらい。
車椅子用の低い位置に設置されたボタンには、これから各駅停車になることを示すランプがずらりと付いていた。
おいおい…。
「だれかいるよ」
しかも見つけられた。
武雄の身体がいくら大きいとはいえ、今の姿の私を隠すことはどのみち無理。
「あー!」
隙間を覗き込み、声をあげる女の子。
普段着なので、近くの公園あたりにでも遊びにいくんだと思う。
仕方ないので、手を振ってあげた。
「ママー! キュアスターがいるよ!」
そして速攻ママに報告しにいく。
武雄が観念したのか、私の前からどいた。
「え? あら!」
突如現れた着ぐるみに、驚くママさん。
多分、私と同じ年くらいだ。
「え、どうしたんですか?」
喜ぶ女の子は当たり前として、ママさんも喜び驚いている感じだった。
聞かれた武雄はこう答えた。
「…仕事ですよ」
ガクと、一瞬よろけかける私。
いや、最初にそんな話してたけどさ。 本当に言っちゃったよ。何の仕事だよ。
「ここでショーがあるんですか?」
「いえ、残念ですけど、ここじゃないんですよ。これから少し離れた会場に車で向かうんですよ」
「着たままですか…?」
「時間がないんで、自宅で着替えて出て来てもらったんです」
武雄の嘘話が展開される中、私はしゃがんで女の子の相手をしていた。
遊園地のキャラクターのように振る舞う。
「おしごとなのー? まじんがでたのー?」
うんうんと適当に頷く。
完全にアニメのそのキャラクターだと信じているようだ。
…でもどう見ても顔が違うんだけど。
衣装だけで判断されているのかもしれないけど、私もそのアニメの主人公の女の子に成りきっていた。
私の顔を小さな手で触ってくる。
「かわいいねー」
私もその子のほっぺをツンツンしてあげる。
「うふ~」
照れてママのジャンプスカートに顔を埋める女の子。
可愛いな~。
また私の手を握ってくる。
「あっちゃん、降りるわよ」
そうこうしているうちに、1階に着いた。
340名無しさん@着ぐるみすと
ここでお別れになる。
「いやー! いっしょにあそぶー!」
しかし手を離してくれない。
気持ちは判るけど…。
私の胸もせつなくなった。
「一階で待っててよ。車を回してくるからさ」
ポンと背中を押された。
…え! 
女の子が全身で引っ張ったので、よろけながらエレベーターからホールに出てしまった。
視界が明るくなる。
振り返ると、閉じつつあるドアの向こうで手を振る武雄が見える。
ちょっと、1人にさせないでよお~。
心細くなる私。
「もう…、ごめんなさいね」
ママが困り果てたような顔で、謝ってくる。
武雄の話をどこまで信用してくれてるのか判らなかったけど、不審がってはいないようだった。
私が思うに、人間ってありえない状況に陥ると、自分なりにいろいろ理由を付けて納得しようとするんだと思う。
だから武雄の「仕事」という言葉を「ショー」と受け取ったんだと思う。
そしてそういうショーに出る着ぐるみは、時間が無いとこうやって着替えて出ていったりするんだと言われれば、そういうものなんだと思ってしまうのかも。
だって、疑っても仕方ないもんね。こんな目立つ格好で悪さが出来るわけないし。
手を振って、私も「気にしないで」という意志を伝える。
「どーしてしゃべらないの~?」
うっ、やはり突っ込まれる。
飛び蹴りされたウサギが脳裏に浮かんだ。
別に飛び蹴りされる不安を感じたわけじゃないけどね。
「そうだ、あっちゃん、一緒に写真を撮ってもらいなさいな」
ママが携帯のカメラを構えた。
「うん!」
話が上手くそれた。私はしゃがんで、ピースサインを出す女の子の両肩に手を添える。
ピコーンと音がして、ママがニッコリ微笑んだ。
「有難うね」
頭を下げるママに、私も立ち上がって頭を下げた。
「ほら、あっちゃん。キュアスターの邪魔をしたら、魔人を倒しにいくのが遅れちゃうでしょ!」
このママもなかなか嘘が上手い。
主人公の秘密を知っている担任の先生が、正体がバレかかった主人公をフォローしている話を思い出した。
…いや、たまにしか見ないから詳しくないのよ、ほんとは。出勤前の朝食の時間に、たまたまやってるから観てるだけなんだから。
何故か自分にそう言い聞かせている私。
こんな格好をしてると説得力無いけどね。
「ばいばーい!」
ママと手を繋いで、女の子が手を振る。
私も振り返した。
そして玄関の自動ドアから出ていった。
…やれやれ。
341名無しさん@着ぐるみすと
ホッとする私。
って、私いま本当に独りぼっちじゃん!
天窓からは光が降り注ぎ、小さなモミの木が左右に立ち並ぶ赤れんが調の通路を照らし出していた。
そこに私が1人取り残されている。
そういえば車を回してくるって言ってたけど、車が付けられる場所は、さっきの親子が今歩いているあたりの歩道まで歩いていかないといけない。
ここから50mくらいある。
…待ってたほうがいいのかな。
と、ふとエレベーター横の管理人室の窓が目に入る。
「あ!」
思わず声が出てしまった。
でも、管理人は休憩時間だったようで、30分したら戻ることを示す札が受付のような小さい窓の向こうにかかっていた。
気付いた事はそれだけじゃなかった。
天井を見ると監視カメラがある。
きっと映っている。
そういえば、エレベーターにも監視カメラがあるのだ。
最初からバレてたんじゃないか!
ゾ~っと背筋が寒くなる。
…でも今さらどうしようもないわけで。
そんなことを考えていたとき、ポーン!とエレベーターのドアが開いた。
武雄?! と期待したけど、開いたのは私達が乗ったのと違うエレベーターのドアで、出て来たのは…小学生の男の子達だった…。
450ごぶさたしてます。324
>>341の続きから

…まるで本当にマンガの中にいるような気分だった。
主人公が出会いたく無い状況を最初に説明すると、後でその状況に出会ってしまうように。

「うお、何だコレ?!」
エレベーターのから出て来た3人の小学生くらいの男の子達は、すぐに私に気付いた。
もっと隠れるかすれば良かったな~と後悔したけど、もう遅い。
「ビックリしたー!」
「何でいんの?!」
どうやら野球をしに行くところだったらしく、男の子の1人はオレンジ色のプラスチックのバットを持ち、もう1人は青いゴムボール、最後の1人は手ぶらだった。
3人ともかなり驚いている。
そりゃそうだ、こんな所に着ぐるみがいるんだもの。
とりあえず、お約束のように可愛らしく手を振ってみた。
「髪の毛ピンク色だよ!」
「これあれだろ、アニメでやってるヤツだよ」
「顔でけー!」
…いや、そういう反応でなくて。
管理人室の窓を背に、3人に囲まれる感じになった私。
「中に人間が入ってんだぜ、これ」
ボールを持っていたわんぱくそうな子が、誇らし気にそう語る。
歯の矯正の針金がキラリと見えた。
…人が入って無かったら、何が入っているというんだねキミタチ?
心の中で突っ込みたくなったけど、とりあえずとぼける仕種をしてみる。
「男が入ってんじゃねーの?」
バットを持っていた背が一番高い子が、憎たらしそうな笑みを見せて聞いてきた。
もちろん首を振る私。
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私も遊園地とかで女の子の着ぐるみを見ると、「中身が男だったりしてー」って思ったりしちゃうんで、怪しむ気持ちは判る。
「…え、男が入ってるの?」
手ぶらだった、眼鏡をかけた子が驚く。背が一番低く、運動が出来そうにない感じだ。
って、男じゃないっての!
喋った方がいいのかな? 中に人が入ってること知ってるんだし。
う~ん…って!
なんと、一番背の高い子が、私の股間をバットで突いてきたのだ!
「何かに当たったぞ!」
股に当たったんじゃこのクソガキャー!
慌てて背中を見せる。
「うわ、パンツ履いてるぜ!」
歯の矯正をしてる子の声だ。
手を後ろに持っていくと、スカートの布が当たった。
どわ! 今度はスカートめくりかよ!
ただでさえめくられても分かりにくいのに、肌タイ着てると全く判らない。
慌てて手で押さえた。
「驚いてる驚いてる」
何か完全にオモチャにされちゃってる私。
武雄~、早く来てよぉ~!

不思議と、こんな状況になっても声を出さない自分に驚いてしまう。
いざ声を出すとなると、何かがつっかえる気がして口籠ってしまうのだ。
武雄相手なら喋っていたのに、知らない人には今まで見てきた着ぐるみのイメージが強く出てきてしまって、喋ってはいけないような義務を感じているのかもしれない。
前を向いて、スカートと胸をそれぞれ押さえて次の攻撃に備える。
蹴りか? 次は蹴りがくるのか?!
キャラクターショーの、主人公がピンチに陥った時の状況を思い浮かべた。
…実際、ピンチなのだけど。
ああ、頭がグルグル…。
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「ねえ、やめとこうよ」
か細い声がした…メガネ君だった。
弱々しそうに、おじおじと私と二人の間に割って入ってくる。
「お仕事中なんでしょ?」
そして心配そうに、私に聞いてくる。
うんうん!と首を縦に振る私。相変わらず、何の仕事なのかは私にも判らないのだけど。
「仕事の邪魔しちゃ駄目だよ。それに早く行かないと、グランド取られちゃうし」
「そだな、行こうぜ」
「ああ」
悪びれる様子もなく、他の子達は自動ドアから出ていった。
…あ、謝りも無しですかい。
「ごめんね。それじゃあ」
メガネ君はちゃんと謝ってくれた。実に良い子だ。
都会にもこんな良い子がいるんだね~。えらいね~。
そして二人の後を追おうと向きを変える。
と、私はメガネ君の手を咄嗟に握った。
「え?」っと驚くメガネ君。
急に振り向いたせいで、メガネがずれていた。
私はしゃがんだ後、メガネ君の手を優しく握った。そして、仕種で「有難う」を伝えた。
するとメガネ君は、恥ずかしそうに笑みを見せて頭をかく。
キュンとするくらい可愛い…。
そして私は握った手を離して立ち上がり、手を振ってメガネ君を見送った。
メガネ君も手を振り返して、ドアから出ていく。
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右手には、か弱そうに見えた男の子の、力強い温もりがまだ残っている。
…メガネ君、キミは私のヒーローだよ。
自動ドアの向こうで、自転車置き場に慌てて走っていくヒーローの姿を、視界の穴から見つめていた。
マンガのヒロインになった気分だ。
すると、入れ代わりに武雄が通路に現れた。
慌てて走ってくる。
…武雄~!
私も駆け出した。
自動ドアが開いて武雄が入ってくる。
「由佳ゴメ…」

監視カメラには、ピンクの髪をなびかせた等身大の人形が、大男に飛び蹴りを見舞っている映像が映っていたと思う。
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「おそおぉぉいぃぃーーっ!」
走り出した武雄の車の助手席で、面を外して開口一番、私は絶叫した。
「ごめん! 本っっ当ぅーに、ごめん!」
キャインキャインという声が聞こえそうな感じで、武雄が謝ってくる。
胸には私の靴跡が、くっきりと残っている。
赤信号で停まった後は、手を合わして何度も私に頭を下げていた。
外からは私のモジモジ君の姿が丸わかりで、信号待ちしている対向車の運転手が怪訝な顔をして見ている。
恥ずかしいけれど、今は怒りの方が収まらない。
地下の駐車場からエントランスまで2~3分もあればやってこれるはずなのに、車の時計を見たら20分もかかっていたのだ。
わざと遅れてきたんじゃないかと、疑ってしまう。
「あれからいろいろあったんだから!」
トートバックからフェイスタオルを取り出して汗を拭きつつ、武雄を待ってる間の一部始終をまくしたてる私。
「まあまあ、とりあえずコレ」
信号が青になり、車が動きだす。
「ペウゲオット」と昔私が読んで笑われた、武雄の愛車「プジョー407」が柔らかな乗り心地で加速していく。
彼がコレと言って座席中央のボックスから取り出して来たのは、「ローベルジュ=フランシーズ」とフランス語で書かれた紙袋。
フランス車のプジョーが読めないのにそれは読めるのかと言われそうだけど、知ってるお店の名前だから読めるのだ。
って、…そ、それは!
「『音速のセレブサンド』じゃないの!!」
また叫んでしまった。
あ、説明がいるよね? 『音速のセレブサンド』とは、駅前のフレンチ屋さんが山手の高級住宅街相手に、屋台ワゴンでサンドイッチを売りに行ってるのだけど、たまに私の住んでいるマンションの横でも売っていたりしていて、以前一回だけ買う機会があったのだ。
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金華ハムやモッツレラチーズ、フォアグラなんかも使ったラインナップは、1個で1000円から2000円もするので、味も値段もセレブなサンドイッチである。
買った金華ハムサンドが美味しかったので、次は他の種類にもチャレンジしようと思っていたのだけど、それ以後は売っているのを見たことが無く、マンションの前の道路を猛スピードで山手に向かっていくのを見かけるだけだったのだ。
サンドイッチは店主さんの趣味らしくて、お店では出してくれないので、食べるとすれば猛スピードで走り去る屋台ワゴンを捕まえて買うしかなかった。
そこで名付けたられたのが、『音速のセレブサンド』。
私と、あと同じマンションの知り合い数人しか使っていない名称だけど。
武雄にも『音速のセレブサンド』を見かけたら、ぜひ買ってきてくれるように頼んでいた。
「武雄でかした!」
面を武雄に渡して、代わりにずっしりと重い、その紙袋を受け取る。ほかほかと温かい。
袋を開くと、チーズや肉の芳醇な香りが広がった。中にはドリンクのカップ2つと、サンドイッチが幾つか入っていた。
「あ、トマトサンド買ってくれたんだ! 食べてみたかったんだ~、モッツレラチーズが挟んであって…て、違う!」  
危うく、食べ物でごまかされるところだった。
…とりあえず食べるけど。
「これ買ってて遅れたと?」
また信号待ちになり、後部座席のバッグの中に面をとりあえず入れている武雄をジロ~っと睨む私。
「ごめん、まさか注文してから作ると思わなかったんだ」
…本当に申し訳なさそうな感じだ。
そうなのだ、このサンドは出来たてを出す為に注文してから作るのだ。
そいやそのことを、武雄に言っていなかったように思う。
よって遅れた理由はこうだった。
車庫から出ると、丁度『音速のセレブサンド』が売っていたので慌てて注文したところ、出来るまで待たされた…。
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う~ん、これは仕方が無いよなあ。
悪気ないし。
けれど玄関に置いてけぼりにされたせいなので、謝ってあげない。
「待ってる間、大変だったね」
褒められたいと思った行為が裏目に出て、なんともバツが悪そうな顔をしている武雄。
私の方はというと、落ち着いたしお腹も空いたしで、サンドイッチを包む紙を剥がし始めていた。
「大変だったよ~」
手袋は外したけれど、身体から指先まで覆った肌タイは外せないので、紙ナプキンで汚れないように工夫しつつ、早く口に運ぼうとヤキモキしている。
やっと食べられるようになり、サンドイッチのコーナーの一つにパクつく瞬間、あることを思い出して、武雄に振り向いた。
「でもね、ヒーローが助けてくれたんだよ?」



渋滞もなく、車は早くもランプ前の料金所に差し掛かり、ETCの通過を示すセンサー音を響かせながらゲートを通過した。
グングンと加速していき、高速に入ったあとも加速を続ける。
周りの景色は早くなっていくのだけど、それほどGを感じないので加速している感じはあまりしない。
「なるほどなあ、正義の味方だね」
武雄が、私をピンチから救ってくれた少年のことを聞いて感心している。
「ほんと、格好良かったんだよー」
助手席のバックミラーには、ピンクの髪のお人形の顔が写っていた。
また面を被っていた私。
被りながらヒーローの事を熱っぽく語っていた。
モジモジ君のままでいたら、道路が片側2車線になって真横に別の車に並ばれるようになったので、流石に恥ずかしくなったからだ。
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顔の部分の肌タイだけでも取ろうかと思ったけど、それだとコスプレしている人みたいなので、それはそれで恥ずかしいし。
中途半端な格好で乗り続けるより、面を被っているほうが、くやしいけど落ち着く。
それに、今日は被って着ぐるみのままでいた方が武雄も喜んでくれると思うので、『音速のセレブサンド』のご褒美として人形の姿に戻っていたのだ。
面を被ったままだとシートがしっくりこないので、シートの頭を固定する部分を取って背中にクッションを入れて調節している。
着ぐるみドライブも、なかなかコツがいるみたい。
…最初で最後だろうけど。
途中の信号で家族連れのバンと真横になったときは、載ってた子供達がかなり騒いでいた。
手を振ると振り返してくる。
何だかアイドルになった気分。
高速に乗ってからもしばらくは、追い抜く車をわざと見たりしていた。
けれどドライバーが驚いて事故を起こしたら大変なので、すぐにやめる。
となると、特にする事も無い。
助手席で人形のように、ただ座り続ける。
視界穴からの、周辺がぼやけた景色は、やっぱり夢を見ている感じだと思う。
面のせいで、周りの音もあまり聞こえない。
代わりに自分の呼吸音が中で響いている。
まるで、布団を被った時の感覚だ。
肌タイで身体を覆われているのも、布団に入っている気分にさせているのかもしれない。
「着くまで寝てていいよ」
どうやら、だんだん眠気に襲われていく私に気付いたらしく、気遣ってくれる。
武雄もそう言ってくれるので、しばし寝てみることにした。
…目を開けて寝てるように見えてるんだろうなあ…。
…そいや周りから見たら、私はいいけど武雄は恥ずかしかっただろうなあ。変な人に見えただろうなあ…。
…寝てる間に、何かしそうだなあ…。
なんてことを考えてるうちに、本当に眠ってしまった。
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「…ン? っうわ!」
人の声が騒がしいので、それで目が覚めた。
気が付くと、車の周りに人だかりが出来ている。
夢? 夢を見てるのかな?!
…違う!
車はサービスエリアに停められたようで、目の前にレストランが見える。
「武雄…て、いないし!」
運転席には武雄がいなかった。
エンジンはかかったままなので、休憩しているのだろう。
車の周りには、家族連れを含めて10人以上が私を見つめていた。
飛び起きた私を見て、笑っている。
携帯カメラやデジカメで撮られたりしていて、とりあえず手を振ったりしていた。
…寝起きに何やってんだあたしは。
頭がグルグルしながらも、咄嗟に手を振るポーズが出来てる自分をみて、どんどん着ぐるみに染まっていっているのを感じる。
ドアの下を覗き込むと、小さな女の子が父親のズボンをつかみつつ私を見上げていた。
手を振ると、ニッコリしてくれる。
と、ドアが開いた。
「あ、起きた?」
武雄が、缶コーヒーを持って入ってくる。
「起きたらこんなだもの、驚いちゃったわよ!」
また放置されて、怒る私。
「トイレ休憩しなくていい?」
「そうね…って、こんな格好でトイレにいけるかー!」
「でも、行っておいた方がいいけど」
「…我慢します」
言われてみれば、確かにそろそろトイレに行きたくなってたけどね。
でも、お人形さんの姿でトイレに行く勇気はない。
再び車が走り出す。
…私が「やっぱりトイレ」と言い出すのは、20分後のことだった。
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「ここなら、PAだから人は少ない方だよ」
人が多い所は嫌だと言うと、いくつかのSAやPAを通り過ぎ、武雄によると人が少なめらしいPAに再び車を停めることになった。
確かに平日の昼過ぎなので、トラックが数台止まっているだけで、結構閑散としている。
「んじゃ、行ってくるね!」
化粧ポーチだけ持って、車を降りる私。
そしてトイレに一目散に駆け込む。
見られていないことを祈るばかりだった。
中も閑散としていて、人の気配はない。
ほっとしたけれど、トイレに並ぶ鏡を見てあることに気付いた。
…面を被ったままだったのだ。
うわ、どうしよう。外さなきゃ。でも置き場所ないよ~。そいや全部脱がないと出来ないんじゃ…。
今日は一時間に一回、頭がグルグルしている気がする。
「ふう…」
とりあえず福祉トイレに入り直した私は、ベビーベットを倒してそこに面を置いた。
衣装を脱がないと肌タイが脱げない。
肌タイも全身一体型だから、殆ど脱がないといけない。
着ぐるみの時は全身をいろいろと覆われてるのに、トイレをするときは全身を殆ど脱がないといけないなんて。
股の所にファスナーがあったら便利なのにね。
あ、でもそんなことしたら、武雄に違うことに使われそう…、それはそれで…って、いやいや!
なんてことを考えながら、衣装を脱ぎ、肌タイも脚を残して脱いだ。
トイレの中で、殆ど裸になってる私。
…変態っぽい。
物悲しさを感じたけれど仕方が無いので、脱いだ部分の肌タイを軽く畳んで前に抱え、便器に座った。
ホッと一息つき、いつ普通の人間に戻れるのだろうと、着替えを少々大げさな感じで考えた。