着ぐるみマジックとらいあんぐる

状態
完結
文字数
39,051
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46
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446萌味屋 ◆xriOMPkqNA
着ぐるみマジックとらいあんぐる
サマーセール


 優香に廊下に呼び出されたのは、7月も半ば、夏休みを間近に控えた昼休みのことだった。
「夏休みの最初の日曜日、何か予定ある?」
 高校生になって初めて迎える夏休み。その記念すべき最初の日曜の予定を俺に訊きに来るとは、こいつはいったい何をたくらんでいるのだろう?
 開け放った窓枠に肘をもたせ掛け、ショートカットの黒髪を掻き上げて横目で俺を涼しげに見つめるこの女生徒は、同じ学年でクラスは別の上田優香(うえだ・ゆうか)。
「まだ特に予定はないけど……」
 そうつぶやきながら俺は優香と同じ窓枠にもたれ、外を眺めた。
 朝から降っていた雨は昼前に上がったらしく、校舎裏に植えられたヒマラヤスギの梢は滴をまとって日の光に輝いている。湿気を帯びた草と土の匂いが鼻をつく。俺は優香とは目を合わさずに、内心は幾分おびえながら次の言葉を待った。
 ここで、「こいつ俺に気があるんじゃね?」などとは考えずに、何をたくらんでいるのかと俺がおびえるのには訳がある。こいつとは十年来の顔なじみなのだ。
 しかも、小学校時代は常にクラスで一、二を争うほどのチビだった俺とは違って、優香は比較的大柄なほうで運動神経も良く、近所の子供たちのリーダー的存在だった。グループの中でも特に家の近かった俺はかわいがられ、いつのまにか舎弟のような扱いになっていた。
 高校に入ってからは、クラスは違うし優香はバレー部の活動に精を出しているしで、顔を合わせる機会は滅多になくなっていたのだが。それが、わざわざ優香のほうから訪ねてきたということは…… つまり、何か用事を押しつけにやって来たに違いないのだ。

「実はね、あたしがバイトしているお店で特別セールをやるの」
 優香が口を開いた。聞けば、おもちゃ屋でバイトをしているのだという。その店で今度特別セールをやる予定で、人手が足りないので臨時で一日手伝ってほしいということだった。興味を引かれて、優香のほうへ体を向け直す。なにより、こいつがバイトをしていたなんて初耳だった。
「特別セールねぇ……」
「要は、夏休みになってさあ遊ぶぞーって時に、お子様たちのハートをがっちりゲットしちゃいたいってことよ」
 優香はニコニコして言う。その楽しそうな表情を見るに、バイトを心から気に入っているのだろう。
「けど、なんで俺なんだ? 他にいくらでも仲のいい奴がいるだろ」
「力仕事もあるから、できれば男の子にお願いしたいんだって」
 なるほど。女はともかく、男となると俺が一番頼みやすい相手らしい。
 そこまで話が進んだところで、優香がふと首をかしげた。
「あれ? また身長伸びた?」
 優香は自分の頭の上に手の平を水平に乗せ、そのまま空中を滑らせるように俺の頭上に移動させた。手の平が俺の髪をわずかになでた。よし、僅差になってきている。
 優香は何やら複雑な顔をしている。背丈を追いつかれるのが気にくわないのだろう。今までずっと俺のほうがチビだったからな。だがそんな俺も中学に入って以降は背が伸びるようになり、この春の身体測定では身長 158 センチになっていた。一方の優香は対照的にここ数年伸びが鈍化している。やはり男のほうが女よりも体が大きくなるようにできているのだ。俺の背が優香を超えるのはもはや時間の問題だろう。
447萌味屋 ◆xriOMPkqNA
 俺が優香と身長逆転した自分の姿を夢想していると、背後から聞き覚えのある声がした。
「優香ちゃん」
「あ、琴美!」
 優香が声の主に応じる。
 振り向くと、俺と同じクラスの園原(そのはら)さんが立っていた。
「今ね、夏休みの特売の件、頼んでたの」
 優香は身長の件などなかったかのように話題を戻した。
 園原さんを交えて三人で立ち話する。なんと彼女も同じ店でバイトをしていて、今回の件で俺を誘うことも既に了解していたらしい。
 二人と話してみて、俺は依頼を快諾した。二人は普段のバイトの様子なども話してくれた。
 俺は優香のことは全く女として認識していないが、園原さんのことは結構意識している。なので、緊張して態度がちょっとぎこちなくなっているかもしれない。二人に悟られなければいいが。

 ――園原さん、下の名前は琴美(ことみ)ちゃん。彼女のことは入学以来そこはかとなく意識していた。
 クラスで目立つタイプではない。むしろ大人しくてちょっとおっとりした雰囲気の、控えめなタイプだ。小柄で、男子の中では小柄なほうの俺よりもさらに頭半分ほど背が低い。肌は色白で、ちょっと癖のある栗色の髪が緩やかにウエーブしながら胸元まで垂れているのが優美な印象を与える。うちの学校は茶髪もパーマも禁止だから、彼女のは天然モノのはずだ。
 部活は手芸部に属していて、鞄に自作の物とおぼしきアクセサリーをつけている。友達にも作ってあげたりしてなかなか好評のようだ。
 休み時間に他の女の子たちと談笑している様子を見ると、彼女の仕草や表情は控えめだが柔らかく、ああ、これが女の子のあるべき姿なんだなと思う。優香のようなガサツな女を長いこと間近で見てきたために、落ち着いた雰囲気の女性にひときわ惹かれるのかもしれない。
 そんな魅力的な子がクラスにいればお近づきになりたいと思うのが人情だろう。俺ももちろんそうだった。ところが、なかなかきっかけが掴めない。話しかけようにも、園原さんが興味を示すような話題を提供できそうにないし。そんなわけで、これまではクラスメイト以上の立場に昇格できず、手をこまねいて遠くから眺めていることしかできなかった。

「じゃ、岡崎(おかざき)くん、当日はよろしくね!」
 園原さんはそう微笑んで、一足先に教室に戻っていった。昼休みももうすぐ終わりだ。
 よかった。園原さんと話せた。しかもたった一日とはいえ、夏休みには一緒にバイトすることになったのだ。バイトを通して彼女とさらに親しくなれるに違いない。
 それにしても、性格的には正反対とも思える優香と園原さんにバイトという接点があったとは。優香グッジョブ! 俺は心の中で喝采を送った。
 優香が顔をしかめる。
「なにニヤケてるの? 気持ち悪い」
 どうやら俺の感謝の念が、知らぬ間に顔からにじみ出してしまっていたらしい。
448萌味屋 ◆xriOMPkqNA

 バイト当日。
 近所ということで、朝、優香が家に迎えにきた。こういう面倒見の良さというか、保護者気取りなところは昔から変わらないな。二人連れ立って自転車で店へ向かう。
 ホビーショップ・タカハシ。今日のバイト先だ。俺も以前に何度か訪れたことがある。優香は単におもちゃ屋と言っていたが、昔ながらの典型的なおもちゃ屋ではなくて、ゲームソフトやプラモデル、アニメのキャラクターグッズなどをメインにした今風の店だ。
 集合は店の前に朝八時。五分くらい前に到着すると、園原さんはもう店の前で待っていた。こちらに気付き、右手を振って俺たちに声をかける。
「おはよう!」
 アルファベットのロゴが入った白いTシャツにベージュのキュロットスカート、赤のスニーカーというラフな姿。栗色の長い髪を後ろで束ねている。初めて見る園原さんの私服姿に鼓動が高まるのを感じた。俺の格好はといえば、こちらもTシャツ、ジーパンにスニーカーという地味なものだ。動きやすい服装をしてこいと優香に言われたのでこうしたのだが、もう少し気を使ったほうがよかっただろうか。
「おはよう琴美。早いね」
 園原さんの前に自転車を止めて、優香が声をかける。
「何だか早く目が覚めちゃって。ちょっと緊張してるのかな」
 自分の鼓動を確かめるように、両手を胸に当てる園原さん。
「うふふっ。今日は楽しみにしてるわよ」
「うん、頑張るね!」
 俺も優香の後ろから、園原さんに声をかける。
「園原さん、おはよう!」
「おはよう。岡崎くん、今日はよろしく!」
 ニッコリと柔らかく微笑む園原さん。その笑顔にドキッとする。天使の微笑みというのはこういうのを言うのだろうか。
 園原さんが俺にこんな笑顔を向けてくれる日が来ようとは、一ヶ月前には想像もできなかった。俺は改めて優香に心の中で感謝した。

 店の前は自動車数台が止まれるコンクリート張りの駐車スペースになっており、その端に駐輪スペースが設けられている。俺たちは自転車をそこへ移動した。
 店の鍵は店長が持っているそうで、店長が来るまでは外で待つことになる。
 優香と園原さんは駐輪スペースの隅で縁石に腰掛けておしゃべりを始めているが、なにやらファッションの話のようで、俺には全く理解不能だった。二人とは少し間を開けて俺も縁石に腰掛ける。
 空を見上げると、雲一つなく気持ちのいいほど青く晴れ上がっている。今日は暑くなりそうだ。
 梅雨が明けたのは数日前で、今や季節は夏へと一変していた。早くも連日の猛暑が続いていたが、体はまだどこかに梅雨の名残を引きずっているようで、未だに暑さに馴染めない感じだ。
 手持ち無沙汰で、見るとはなしに二人を眺めた。二人はとても仲が良さそうで、見ているこちらも心がなごむ。
 園原さんが顔を動かすたびに、後ろで束ねた髪が揺れた。小柄で色白で、まるでフランス人形みたいだと思った。
449萌味屋 ◆xriOMPkqNA
 八時ちょうどに店長夫妻が現れた。高橋健司(たかはし・けんじ))さんと美幸(みゆき)さん。お二人とも三十代くらいだろうか。商店主ということからもっと年配の人をイメージしていたので、意外だった。お二人とも気さくなかたで、特に美幸さんは優香や園原さんとしゃべる様子がまるで友達同士のようだった。
 店長を先頭に、裏の通用口から建物の中に入る。店の裏にあるトイレと休憩室の場所を綾香に教えてもらった。休憩室は中央にテーブルと椅子を置いた小部屋で、店のスタッフが休憩したりちょっとした作業を行ったりするのに使うそうだ。壁にはロッカーとスチール棚が並んでおり、小さな冷蔵庫と流しもあった。貴重品以外の私物はこの部屋に置いておくそうなのだが、俺は手ぶらで来ていたので何も置いていく物がなかった。店の裏には他に倉庫と事務室もあるそうだ。

 開店前の薄暗い店内で簡単な説明を受けた後、セールの準備に取りかかった。
 特別セールは店の前の駐車スペースで行うそうだ。店の入り口脇にテントを立てて、そこに特売商品を陳列して販売を行うのだ。テントは運動会などで使われる、鉄パイプの骨組みに白いシートの屋根をかぶせたアレだ。
 店長の指導でテントを組み立てていく。単に鉄パイプを差し込んでいくだけの簡単な作業だが、それなりに力仕事だった。確かにこういうのは男手があったほうがいいだろうな。屋根を持ち上げるときには園原さんふらついてたし。
 テントを立てたら、今度は店の倉庫から長机とパイプ椅子を出して並べ、商品が入った段ボール箱を運び込む。『プニケア・ツインズ』、『プニケアStep』、『フラッシュ! プニケア』…… 男の子向けのライダーや戦隊モノも少しはあるが、大半はプニケア・シリーズ関係の商品だった。優香に訊くと、今回のセールはプニケア特集なのだそうだ。
 プニケアとは、プニプニ肌の美少女戦士たちが悪の組織に襲われた人々をやさしくケアして救うという内容の女の子向けのテレビアニメで、毎年新番組が作られている人気シリーズだ。現在放送中なのは『プニケア・ツインズ』で、赤と青の双子の戦士がヒロインなのだそうだ。
 それにしても暑い。屋外での作業を続けていると、まだ開店前の準備段階だというのに汗が出てきてシャツがべたつくのを感じた。

 商品運びが一段落した頃、美幸さんが店の入り口から顔を出した。
「琴美ちゃん、そろそろいい?」
「あ、はい」
 園原さんは返事をすると、優香に声をかけた。
「じゃ、行ってくるね」
「うん、がんばって」
 そして俺にも、
「岡崎くんも、また後で」
「あ、あぁ」
 園原さんはいそいそと店の中に入っていった。
 店の前の販売ブースに優香と残る。二人でテントの飾り付けを行ったり商品をテーブルに並べたりといった具合にブースの準備を続けた。
 そういえば、こいつの私服姿を見るのも久しぶりだな。
 白とブルーのボーダーTにブラックデニムのスキニーパンツ、足元は黒のフラットシューズ。店のロゴが入った麻のエプロンを掛けている。
 久しぶりというか、考えてみると中学のとき以来だ。
 横から見る優香の体。エプロンを押し上げる胸の膨らみや、パンツに包まれたヒップのむっちりした曲線に目が行ってしまう。
 なんてこった。以前ならそんなの気にとめなかったのに。俺の記憶の中にある昔の優香は、こんなに女らしい体つきはしていなかった。どうやら背が伸び悩んでいる間に、別の部分の発育が進んでいたらしい。
 優香の手伝いをしつつも、チラチラと優香の姿態を眺めてしまう。
450萌味屋 ◆xriOMPkqNA
 それにしても、園原さんはどうしたんだろう。店に入ってもうだいぶ経つのに、戻ってくる様子はない。
 今日のセールでは外の販売ブースは優香がチーフで、俺はその手伝いをすることになっていた。園原さんも外の担当なのだが、販売ではなくて、お客さんたちを楽しませて特別セールを盛り上げる役割だと聞いていたのだが…… もしかして、何かそのための準備をしているんだろうか。
 ちなみに、店内のほうは店長と美幸さんが見ている。午前中は以上の五人で切り盛りすることになるが、午後からは人が増えてもっと楽になるそうだ。

 まもなく開店時刻の十時になる。店の周りにお客さんらしき子供たちや親御さんたちの姿をちらほらと見かけるようになってきた。
 夏の気温は早くも上がり始めていた。テントのおかげで直射日光は浴びずにすんでいるが、熱を帯びたコンクリートからの照り返しがまぶしい。
「今日、けっこう暑いね」
 優香がウチワをパタパタとあおぎつつ、空を見上げて言った。
 さらに独り言のように小さくつぶやく。
「琴美、大丈夫かなあ……」
 さっきから園原さんのことが気になっていた俺は思わず尋ねた。
「園原さん、どうしたの?」
「ん? ううん」
 優香はちょっと言いよどむそぶりを見せたが、しばらく間を置いて、
「それは見てのお楽しみよ」
 片目をつぶっていたずらっぽく微笑んだ。
451萌味屋 ◆xriOMPkqNA

 午前十時になり、いよいよ開店というその時、店の前にちらほらと集まり始めていたお客さんたちから突然喚声が上がった。彼らの視線の先を見ると、店の入口に美幸さんと、その前にピンクの派手な服を着た女の子が立っていた。女の子は頭が妙に大きくて、よく見ると手は指先まで肌色の布で覆われている。顔も作り物だ。着ぐるみの女の子だった。
「うわぁ、かわいい!」
 優香が声を上げる。着ぐるみがこっちへ向き直って、両手を胸の前で小さく振った。そのコミカルな仕草に、思わず顔がほころんでしまう。
「もしかしてあれ、園原さんなの?」
 着ぐるみを指差し、振り返って優香に問いかける。
「だめだめ。今は“ケア・プラム”って呼んであげて」
 優香は俺の耳元に口を寄せ、ささやくようにそう言うと、片目をつぶって見せた。
「けあ… 何だって?」
「ケア・プラムよ。去年やってた『フラッシュ! プニケア』の主人公なの。ほら、これ」
 優香はテーブルに並べてある商品の箱を一つ取り上げてこちらへ向けた。
 そこにはアンミラ風に胸元を強調してウエストを絞った白とピンクのフレンチメイド風ドレスを着て、ドレスと同色のブーツをはいた両脚を八の字に開き、片手を腰に、もう一方の手を額に当てて微笑む、黄色いツインテールの魔法少女ヒロインみたいなキャラクターが描かれていた。
 もう一度着ぐるみへ目を向ける。なるほど、確かにそのキャラだ。
452萌味屋 ◆xriOMPkqNA
 プラムの着ぐるみがこちらへトコトコと駆け寄ってきて、両手で俺の手を包むように握り、数回上下させた。
握手してくれているらしい。そのかわいい仕草に胸がドキドキしてくる。中に園原さんが入っているかと思うと、なおさらドキドキする。やばい、手が緊張で震えそうだ。平静を装わねば…… プラムの手は素手ではなくて、肌色の布で覆われていた。それがキャラクターの“肌”ということなのだろう。布に包まれた園原さんの手は、小さくてとても温かく、そしてとても柔らかかった。
 手を握ったまま、俺の目線より低い位置にあるプラムの顔が俺を見上げる。女の子キャラの着ぐるみをこんなに近くで見るのは初めてだ。面の造型や衣装にまじまじと見入ってしまう。見るからに本格的な造りだった。
「すごい…… よく出来てるな」
「でしょ? だって本物だもの」
 優香が横から口を挟んできた。振り向くとこちらを見てニヤニヤしている。
「本物?」
「遊園地のショーとかで実際に使われてる物を業者から借りてきたのよ」
 すごいでしょ!とでも言いたげに胸を張る優香。まるで自分の手柄だと言わんばかりだ。お前が借りてきたのか?
「まさか。店長が借りてきたのよ。仕事柄、そっち方面にコネがあるんだって」
 改めてプラムを観察する。確かに素人の手作り品などではない。
 マスクの表面は滑らかで、パッチリとした目は朱色のグラデーションが掛かった大きな瞳が印象的だ。ボリュームのある金髪は、前髪は形が崩れないように固められている一方、ツインテールは固められておらず、頭の動きに合わせてフサフサと揺れた。衣装も光沢のある丈夫そうな厚地の布で作られている。ショーで使うにはこれくらいしっかりした生地でなくてはならないのかもしれないが、夏に着るにはかなり暑そうだ。
 あまりにもジロジロ眺め回したせいだろうか、プラムが俺を見つめて「どうしたの?」というように小首をかしげた。ちょっとした仕草なのにとてもかわいらしい。
 大きな瞳は間近で見ると、黒く塗られた部分に穴が開けられていて、そこに内側から網目状の黒い布が張ってあるのがわかる。布に阻まれて中の様子はよく見えないが、この穴のどこかから、園原さんが息を潜めてじっとこちらを見つめているに違いない。
 そしてプラムの口。笑顔で開いた口の中には赤い、こちらも網目状の布が張られている。この布のすぐ裏に園原さんの唇があるのかと思うと、たまらない気持ちになった。
 園原さんの瞳が、唇が、目の前にある。面を隔てて、息がかかりそうなほど間近で園原さんと自分が見つめ合っていることを意識した。
453萌味屋 ◆xriOMPkqNA
「さっ、プラム、子供たちがお待ちかねよ」
 優香の声でハッと我に返った。優香がプラムの頭をなで、駐車場に集まってきた子供たちのほうへ目をやる。危ない危ない。時間にすればほんの一呼吸か二呼吸するほどの間だっただろうが、完全に園原さんと二人だけの世界に浸ってしまっていた。もっとも、そう思っていたのは俺だけで、園原さんはそんなことは考えもしなかっただろうが。
 プラムはピョコンと跳ねるようにかわいらしくうなずくと、子供たちの元へ駆け寄った。子供たちと親御さんたちの喚声が上がる。

 優香が俺の脇腹をつつく。
「プラム、気にいった?」
「ま、まあな」
「着ぐるみは子供向けのものってイメージがあるけど、実際に目の前で動いてるの見たら、子供じゃなくても誰だって参っちゃうよね」
 俺はふと疑問に思ったことを口にした。
「でも、プラムって前の番組のキャラだろ? どうして今やってる番組のキャラにしなかったんだ?」
「夏休み期間中は各地でショーが行われるから、今年のキャラクターはさすがに空いてなくて借りられなかったのよ」
 優香は子供たちと戯れている着ぐるみの後ろ姿を優しく見つめ、目を細めた。
「でもね、あたしはプラムでむしろ良かったと思うな。今年のツインズは双子だから1体だけじゃサマにならないもの。その点、プラムなら主人公ってことで単体でも変じゃないし。それに、プラムは今でもとっても人気があるのよ」
 俺も、視線を優香の横顔からプラムの後ろ姿へと移動する。
「去年の着ぐるみがよく残ってたな。ああいうのって、番組が終わったら処分されたりしないのか?」
「歴代キャラが集合するイベントとかもたまに行われるから、ある程度の数は保存してあるそうよ」
 しゃがんで小さい子と手をつなぎ、他の子には背中からしがみつかれたりしながら頑張っているプラムの後ろ姿が、とてもけなげでいじらしく感じられた。
454萌味屋 ◆xriOMPkqNA
 お客さんが販売ブースのほうにも集まり始めた。優香と一緒に対応しつつも、プラムをチラチラと観察した。
 プラムは子供たちと一緒にキャピキャピと元気よく跳ね回っている。学校で見る普段の園原さんの落ち着いた雰囲気からは想像もできない。着ぐるみを着ると、人格までキャラクターになりきってしまうのだろうか。
 しゃがんだり中腰になったり立ち上がったり、忙しく立ち回る。プラムが体を上下させるのに合わせて、ふっくらと膨らんだスカートの裾がフサフサと揺れた。
 わきから染み出した汗が、プラムのわきの下のタイツにシミを作っていた。あご下のタイツも、まるでヨダレを垂らしたみたいに濡れて色が変わっている。ヒジの内側やヒザの周囲も汗でシミになっている。中は相当暑いに違いない。
 無理もない。プラムと俺たちがいるのはコンクリート張りの駐車スペースなのだ。夏の日差しに熱せられたコンクリートから熱気が立ち上ってくる。Tシャツ姿で、しかもテントのおかげで直射日光に晒されなくてすむ俺たちでさえ、暑さに汗が噴き出してくる。
 なのに園原さんは、マスクをかぶり、タイツで全身を覆ってさらにその上に厚地の衣装まで着て、夏の強い日差しを浴びながら全身を動かして元気にキャラクターを演じなければならないのだ。
 そんな過酷な状況の中でも、園原さんはプラムを着たまま、暑そうなそぶりなど全く見せない。でも暑くないはずがない。本当は今すぐに着ぐるみを脱ぎ捨てたいほど暑いはずだ。それなのに暑さに懸命に耐えながら、演技で暑くないフリをしているのだ。着ぐるみの中が灼熱地獄である証拠に、こうして見ている間にも、汗染みはどんどん増えてきていた。
 普段の園原さんの姿を思い返す。いつも学校で見る園原さんは、おとなしくてとてもかわいらしい女の子だった。
 それなのに。
 今、目の前では汗ぐっしょりになった着ぐるみが子供たちの相手をしている。あの中で園原さんが汗まみれになりながらプラム役を演じているのだと想像すると、たまらない気持ちになった。

 こうしてプラムを眺めているうちに、他にも気が付いたことがある。
 着ぐるみは着る人の体を完全に包み込んでしまう。だから、その外見からは着用者の痕跡はすっかり消え去ってしまうと思い込んでいた。
 しかしそれは間違いだった。着ぐるみに覆われていても、その外見には園原さんの姿が部分的に現れていた。
 つまりこういうことだ。面や髪型や衣装が作り出すシルエットはアニメキャラのプラムのものだが、衣装から伸びるスラリとした手足のシルエットはまぎれもなく園原さん自身のものなのだ。そこには着ぐるみが隠しきれない中の人の痕跡、園原さんの姿があった。
 ふっくらとしたパフスリーブの袖口から伸びる、華奢でほっそりとした腕。フワフワと揺れるスカートから伸びる、形のよい柔らかそうな太もも。どちらもタイツにピッチリと包まれているとはいえ、それはまぎれもなく園原さんの手足だった。園原さんがプラムの着ぐるみから手足を突き出している。そう考えると、それはとてもなまめかしいものに感じられた。
 思えば、人の手足をこんなに意識して眺めたことはこれまでになかった。顔が隠されているために、かえって顔以外の部位に目が行くのかもしれない。園原さんの手足が動くさまを見ていると、園原さんがプラムの中にいてプラムを演じ、プラムを動かしているのだということが生々しく実感できた。
455萌味屋 ◆xriOMPkqNA
 また、園原さんの痕跡はその姿形だけではなく、動き自体にも見て取れることに気がついた。
 初めのうちはキャピキャピとした大げさな動作に惑わされて気付かなかったが、じっくりと見ていると、子供に接するときの仕草、例えば子供の頭をやさしくなでる仕草などは、園原さんの普段の柔らかい物腰を思い出させるものだった。
 園原さんらしい仕草を見分けられるようになると、外見はプラムの姿をしているのに、まるで着ぐるみの中を透視して、園原さんが子供たちの頭をなでている様子が目に見えるようだった。

 販売ブースで優香の手伝いをしつつ、その後もついついプラムに目が行ってしまう。
 ふと横からの視線を感じて振り向くと、優香がこっちを見てニヤニヤしていた。
「プラムのこと、気になってしかたがないみたいね」
 しまった、よそ見をしすぎたか。
「ごめん……」
 思わず謝り、顔が熱くなる。実はプラムの中にいる園原さんのことを考えて興奮しているなんて、そんなこと言えない。
「あんなにかわいいんだもん、どうしたって目が行っちゃうよね。あーあ、あたしもプラムちゃんと遊びたいな―!」
 幸いなことに、優香は俺が園原さんではなく着ぐるみプラム自体に惹かれていると思ってくれているようだった。

(続く)
462萌味屋 ◆xriOMPkqNA
初めまして、萌味屋(もえみや)です。
ご感想とご支援ありがとうございます。
喜んで頂けると励みになります!

昨日投稿した分を読み返したら間違いを見つけました。
不注意ですみません。

>>449 1行目、閉じ括弧が多い
高橋健司(たかはし・けんじ))さん → 高橋健司(たかはし・けんじ)さん

>>452 後半部
ボリュームのある金髪は → ボリュームのある黄色い髪は

では続き行きます。
463萌味屋 ◆xriOMPkqNA

 中天にさしかかった太陽が、そのジリジリと射るような日差しを頭上から降り注ぐ。
 鼻の頭を汗が流れる。
 まもなく正午だった。夏の日中の圧迫感さえ感じさせる暑い空気が辺りを包み込んでいる。
 いつのまにか、プラムの汗染みはなくなっていた。汗が乾いたのではない。汗がタイツと衣装の隅々にまですっかり染み渡ったのだ。今やプラムは全身がぐっしょりと濡れていた。プラムが立っている足元のコンクリートにも、汗の滴った跡が点々とシミを作っている。いったいどれだけ汗をかいているんだろう。
 動きも、初めの頃の元気よく跳ね回るような動きは鳴りをひそめ、格段に緩慢になっている。プラム、そしてその中に入っている園原さんには、だいぶ疲労がたまっていそうだ。

「琴美、大丈夫かなぁ。つらくなったらサイン送ってって言ってあるんだけど……」
 プラムのほうを見て心配そうにつぶやく優香。優香もプラムの様子が気になっているようだ。
 優香はしばらく考え込むようなそぶりを見せたあと、
「ちょっとブース見てて」
 そう言って販売ブースを離れ、プラムの元に歩み寄った。
 プラムの肩を抱き、面に顔を近づけて何事か話しかけている。プラムは小さく何度かうなずいたり、かぶりを振ったりしている。
 しばらくして話がついたらしく、優香が戻ってきた。
「タイミングを見てプラムを退場させるから、あたしが合図したらプラムの手を引いて休憩室へ連れていって」
 そしてブースの管理をしながらプラムの様子をうかがう。
 プラムの周りから一時的に子供がいなくなったタイミングをとらえて、優香は再びプラムの元へ駆け寄り、ケア・プラムの退場を宣言した。
 居合わせたお客さんたちの間から落胆の声が上がる。3ポーズだけ写真撮影の時間を作った後、優香はプラムの手を引いて戻ってきた。プラムは空いているほうの手でお客さんたちに手を振っている。
「休憩室へお願い」
 優香は小声でそういうと、プラムを俺に引き渡した。
464萌味屋 ◆xriOMPkqNA
 プラムの手を取って驚いた。園原さんの手を包む肌色の布は、手を握ると汗が染み出るほどグッショリと濡れていて、その布に包まれた手はとても熱くなっていた。中の人の体がどんなに火照っているかが想像できた。
 プラムを連れて店内を通り抜け、スタッフオンリーのドアから店の裏へ入る。ドアを閉じた途端、プラムは崩れるように壁にもたれ掛かって肩を落とした。
「ハァ…ハァ……」
 つらそうな呼吸音が通路に響く。大きく肩で息をしている。
 今まで苦しいのにずっと耐えていたのが、お客さんの目から解放された途端に緊張の糸が切れたのだろう。
 うつむいたプラムの耳もとへ小声で尋ねる。
「大丈夫? 休憩室まで歩ける?」
「うん……」
 弱々しい声が面の中から聞こえた。
 プラムの肩を抱いて休憩室に連れていく。抱いた肩の、パフスリーブの下にある園原さんの肩は、手と同様に燃えるように熱かった。

 プラムを休憩室の椅子に座らせる。ここは冷房が効いていた。
 扉を閉めると、
「ハァ…ハァ…ハァ……」
 二人だけの室内に、園原さんのつらそうな声がひときわ大きく響いた。外にいるときには全く気付かなかったのに、狭い室内では着ぐるみの呼吸音がこんなにはっきりと聞こえるなんて。
 プラムは後頭部に手を回してツインテールの分け目をこじ開けようとしていた。そこを開けて面を脱ぐのだろう。だが指がうまく隙間に掛からず手こずっている。
 その間も面の中からは園原さんの苦しげな息遣いが途切れることなく響いてくる。
「ハァ…ハァ…ハァ…ハァ…ハァ……」
 面を脱ぎたくても脱げなくて、焦ってますます呼吸が速くなっているようだ。俺はたまらず声を掛けた。
「手伝うよ」
「お願い……」
 面の中から園原さんのくぐもった声。
 分け目の隙間に指を入れてこじ開ける。バリバリと音がして左右に開いた。マジックテープで留めてあったのだ。モワッと熱く湿った空気が面の中から溢れ出して周りに広がった。園原さんはこんな空気の中に閉じ込められていたのか。
 園原さんはまだ苦しげに呼吸している。面を早く脱がせてあげたい。だが、脱がせるにはまだ作業が必要だった。開いた後頭部の内側を見てギョッとした。なんと、面の内側では左右から伸びる紐がうなじの上で縛られ、面が動かないように頭にガッチリと固定されていたのだ。
 さらにアゴの下もマジックテープ式のアゴ紐で固定されていた。
 ここまで何重にも固定しなくてはいけないのか。まるで拘束具のようだと思った。園原さんは役目とはいえ、こんな拘束具のような面をかぶせられ、着ぐるみに身を包んで炎天下でずっとプラムを演じていたのか……
 俺がうなじの紐をほどいている間に、アゴ紐のほうは園原さんが自分で外した。全ての拘束を解き、面を持ち上げる。園原さんの頭が面から抜け出て、モワッとした熱気と共に湯気が立ち上った。
 園原さんはそのままテーブルに突っ伏した。
465萌味屋 ◆xriOMPkqNA
 肌色のタイツに包まれた頭部はまだ湯気が立っている。その後頭部は髪をまとめているのだろう、大きく膨らんでいた。タイツは前が丸くくりぬかれて、そこから汗まみれで紅潮した園原さんの顔が現れていた。
 両腕をテーブルに投げ出したまま、園原さんが顔を横に向ける。彼女の顔からは汗の滴が幾筋も流れ落ち、テーブルに小さな水たまりを作った。真っ赤に上気して、目も心なしか潤んでいる。まだ息が整わないらしく、全力疾走した後のように荒い息をしている。その唇は濡れて艶っぽく光っていた。

 不謹慎と言われるかもしれないけれど、そのあまりに欲情をそそる表情に、後ろから抱き締めたくなるような衝動に駆られた。
 正視できなかった。これ以上彼女の表情を見ていると、本当に抱きついてしまいそうだった。たまらずに彼女から目をそらす。
 彼女は視界から消え、彼女の息遣いだけが部屋を包んだ……

 どれくらい時間が経ったろう。隣で衣擦れの音がして、俺は園原さんに目を戻した。
 園原さんは身を起こし、上気した顔をうつむかせて息を整えている。その息遣いはだいぶ落ち着いてきていた。
「大丈夫? 何か手伝うことある?」
 声を掛けると園原さんは顔を上げ、俺に向けて笑ってみせた。
「ううん、ありがとう…… もう大丈夫」
 その顔にはまだ汗がそこここに光っている。
「じゃ、表に戻るよ」
 用事もないのにいつまでもグズグズしていたら変に思われてしまう。なにより、このまま園原さんと二人でいたら何か間違いを起こしてしまいそうだった。
 だが、退出しようと背を向けた俺を園原さんが呼び止めた。
「あ、待って。やっぱりここも……」
 俺が振り返ると、自分の背中に手を当ててうつむいた園原さんが頬を赤らめて言った。
「背中のファスナーもお願い」
466萌味屋 ◆xriOMPkqNA
 園原さんの肩に手を掛け、もう一方の手でドレスのファスナーを引き下ろす。
 女の子の服を脱がせることになるなんて。胸がドキドキする。
 園原さんは俺に背中を向けてじっとしている。その背中はとても小さくて華奢でかわいらしい。呼吸に合わせて肩がゆっくりと上下している。
 ファスナーを下ろしていく途中で手が園原さんの背中に触れた。園原さんの体がピクッと小さく反応する。
「あ、ごめん」
「ううん、大丈夫」
 園原さんはうつむいてそう答えるが、身を固くしているのがわかる。彼女も意識しているらしい。
 ファスナーを下まで下ろしたところで声を掛けた。
「下ろせたよ」
「タイツもお願い」
 タイツも!? ドキリとする。
 ファスナーの開いたところから、タイツに包まれた背中が露わになっている。タイツは園原さんの体のラインに密着しているうえに肌色なので、まるで園原さん自身の肌のようななまめかしさがあった。でもこれは布でできた偽物の肌なのだ。偽の肌の背中には頭から腰まで縦にファスナーのラインが見えた。このファスナーの下に園原さんの本当の肌があると思うと、たまらない気持ちになる。
 園原さんの体に密着したタイツ。そのファスナーを下ろして内側に隠された園原さんの体を露わにする…… 思わずゴクリと唾を呑み込んだ。
 タイツのファスナーを下ろしていくと初めに園原さんの髪が現れ、次にうなじ、そして首筋が見えてきた。園原さんの生肌だ。しかもこんな近くに。ほのかに花のような甘い香りがする。髪に残ったシャンプーの香りだろうか。
 さらにファスナーを下ろして背中にさしかかると、下に着ているTシャツが見えてきた。
 Tシャツは水を浴びたようにグッショリと濡れ、肌に貼り付いて透けている。引き続きファスナーを下ろしていくと、Tシャツ越しにブラジャーのベルトがはっきりと透けているのが目に飛び込んできた。
 一瞬手が止まるが、平静を装い再びファスナーを下ろしていく。
 園原さんはシャツが透けていることに気付いていないようだ。
 ファスナーを下ろし終わると、園原さんはこちらに向き直り、
「ありがとう」
 力なく、それでも精一杯の感謝の気持ちを伝えようとするように微笑んだ。
 園原さんの姿に興奮してしまっている俺。それなのに、園原さんはそんな俺の心のうちには気付かずに優しく接してくれる。
 申し訳なくて、むず痒い気持ちを覚えた。
467萌味屋 ◆xriOMPkqNA
 と、こちらが余韻に浸る間もなく、園原さんはモゾモゾとプラムのドレスを脱ぎ始めた。
 タイツに包まれた胸の膨らみが目に入る。
 目のやり場に困っていると、というか部屋を出るタイミングを失ってオロオロしていると、美幸さんがタオルの束を抱えて入ってきた。
「お疲れさま。暑かったでしょう? これ使ってね」
 美幸さんはタオルの束をテーブルに置くと、
「岡崎くんもご苦労さま。あとはまかせて」
 俺に向けてそっとウインクした。

(続く)
474萌味屋 ◆xriOMPkqNA

 昼食は交代で取ることになっている。俺がコンビニのおにぎりをジュースで腹に流し込んでブースへ戻ると、優香の隣に眼鏡をかけた女性が座っていた。
 優香は俺に気付くと隣の女性を紹介してくれた。名前は多恵子(たえこ)さん。美大の二年生で、この店で一緒にバイトしているのだという。午後から来るスタッフの人とはこの人だったようだ。
「加賀多恵子(かが・たえこ)です。多恵子って呼んでくださいね」
 初対面で下の名前をご指定とは! さすが大学生のお姉さんは大胆だなぁ。
「岡崎孝史(おかざき・たかし)です。よろしくお願いします」
「岡崎孝史くんかぁ。孝史くんって呼んでいいですか?」
 俺はもちろんOKした。断る理由もないしな。
「孝史くん、よろしくね!」
 多恵子さんはほっこりと微笑んだ。
 初対面でいきなり下の名前で呼び合う仲になってしまった。なんだかのんびりした雰囲気の人で、いい人そうだった。

 多恵子さんとの挨拶が済むと、優香は園原さんの様子を教えてくれた。
 園原さんは事務室のソファに寝かされているそうだ。水分を取ってだいぶ落ち着いてきたが、これ以上プラムを演じるのは無理そうだという。
 そういえば、暑さが最盛期になる8月より、梅雨明け直後の7月のほうが熱中症のリスクが高いのだと聞いたことがある。体がまだ暑さに慣れていないのだ。園原さん、大丈夫だろうか。
 俺が園原さんの容態を案じていると、優香は俺の顔を見て申し訳なさそうに言葉を続けた。
「それでね、お願いがあるんだけど…… これは店長とも相談した上でのことなんだけど、琴美の代わりにケア・プラムをやってもらえないかしら」
 いきなり、ビックリするような発言だった!
「俺が!? 俺より優香のほうが合ってるだろ?」
 動転して声が裏返る。
「あたしは他にもいろいろやらなきゃいけないことがあるから無理なのよ」
 優香はすまなそうに言った。
 優香の言うことはもっともだった。俺は女性キャラの着ぐるみだから女性がやったほうがいいだろうと単純に思ったのだが、もともと俺は一日限りの臨時雇いで、優香の手伝い程度のことしかできないのだ。俺より優香のほうをスタッフとして残すべきなのは明らかだった。多恵子さんと俺を比較しても同じ結論になるだろう。俺がやるのが一番いいのだ。
 それに実のところ、着ぐるみを間近に見て興味を引かれていたのは確かだった。着てみたいという気持ちが密かに湧いていた。
 ただ、園原さんの疲労困憊した姿を思い出すと、自分の体力が保つかどうかが不安だった。その点について尋ねると、「適宜休憩を取っていいから」ということだった。
475萌味屋 ◆xriOMPkqNA

 結局、俺がケア・プラムをやることになった。プラムの衣装一式は休憩室に置いてあるという。
 休憩室に入るとプラムの面がスタンドに載せてテーブルの上に置かれていた。タイツとドレスはハンガーで壁に掛けられており、ブーツはテーブルの脇に置かれている。その他の物は面と一緒にテーブルの上に並べられていた。
 プラムの面をじっくりと眺める。パッチリとした目、スベスベの肌、黄色いツインテールの豊かな髪。口を開いて笑っていて、とてもかわいい。これからこれをかぶるのかと思うと気持ちが高ぶってドキドキしてくる。
 次にハンガーに掛けられたタイツへ目をやる。肌色で人の形をしていて顔の部分がくりぬかれている、いわゆる全身タイツだ。テレビで芸人が全身タイツを着ているのを見かけることはあるが、自分で着るのは初めてだ。同じ格好をするのかと思うとなんとも恥ずかしくて、これまたドキドキしてくる。

 ハンガーに掛けられたタイツを実際に手に取ってみると、まだグッショリと濡れていた。そのうえクーラーの冷気に当たってすっかり冷たくなっていた。思わず身震いする。
 でも、早く着なくてはならない。店の外では子供たちがプラムの登場を心待ちにしているのだ。覚悟を決めて、タイツをハンガーから外した。
 ためしに部屋の隅にある流しでタイツを絞ってみると、うわ…… 濡れぞうきんを絞るみたいに水が滴った。園原さん、こんなに汗をかいていたのか。いや、これでもタイツに含まれている分だけだから、実際にかいた汗の一部にすぎないんだよな。
 タイツにはまだだいぶ水気が残っているが、あまりきつく絞って生地を傷めたらまずい。ほどほどのところでやめて着ることにする。

 靴とジーパンを脱いで椅子に腰掛け、タイツを両手で広げて片足を入れる。
「うわっ…」
 冷たくて思わず声を上げそうになった。それに、濡れたタイツが足にまとわりつく。我慢してタイツを膝まで引き上げると、それだけでもうタイツから水が染み出してきた。さらにもう一方の足をタイツに入れ、立ち上がって腰まで引き上げた。両脚がタイツにピチピチと締め付けられ、ひんやりと冷たい。水が早くもパンツに染み込んできた。
 Tシャツは脱ぐかどうか迷ったが、濡れたタイツが肌に貼り付く感覚があまりにも気持ち悪かったので、肌に直接タイツが触れるよりはマシと思って着たままでいることにした。
 タイツの腕部分に自分の腕を片方ずつ順に入れていき、両腕を上腕部まで入れたところでタイツの頭部を頭にかぶる。
「うっ…」
 またしても声を漏らしそうになる。冷たいタイツが顔に貼り付き、首にまとわりつく感触の気持ち悪さはまた格別だった。少し息が荒くなった。
 深く呼吸をして気持ちを落ち着けると、今度は体を反らせ、シワを伸ばしてタイツを体になじませる。このタイツは自分の体格よりも小さいサイズのようだったが、伸縮性がよくて無事に体が収まった。
 背中に手を回し、ファスナーを腰から後頭部まで引き上げた。ファスナーを閉じると、全身の締め付けがぐっと増したのを感じる。濡れて冷たいタイツが手足にピッタリ貼り付き、タイツからシャツとパンツに水が染みてくる。体がひんやりと冷える。それに、首回りに冷たいタイツが貼り付き、首を動かすたびに貼り付き方が変化してムズムズする。
476萌味屋 ◆xriOMPkqNA
 タイツが全身に貼り付き、体中が締め付けられる感覚は、生まれて初めて体験するものだった。
 それに、このタイツはついさっきまで園原さんが着ていた物だ。そんなことを考えていると、股間がムクムクと大きくなり始めた。
「あ、やべ……」
 意識するとますます大きくなっていく。
 全身タイツ姿で股間をそそり立たせているなんて、こんなところをもし人に見られたら大変だ。股間を隠すためにも早く衣装を着ないと。
 まずはタイツの上からプラムのパンツをはく。ピンクの大きなパンツを腰まで引き上げると、股間が刺激されてさらに大きくなってしまった。
 次にドレスを着る。プラムのドレスはふっくらとした胸の部分とパフスリーブが白、ウエストとミニ丈のスカート部分がピンクのワンピースだ。
 ハンガーに掛けてあるドレスを取り上げると、園原さんの汗を吸ったドレスは濡れてずしりと重かった。
 タイツのように水を絞ることも考えたが、さすがにドレスはシワになりそうなので我慢してそのまま着ることにする。
 背中のファスナーを下ろして足を通し、袖に腕を通してドレスを肩まで引き上げる。ドレスはひんやりと冷たくて、体が芯まで冷えていく感じがした。
 女の子の服を着ていることにドキドキする。初めての女装だ。まさかこんなことをすることになるとは。体は冷え切っているのに、股間だけはますます熱くなっていた。
 ファスナーを上げるのは一苦労だった。タイツと違って伸縮性がないのだ。体を反らせ、腹をへこませて背中側の生地を中央に寄せるようにしてファスナーを少しずつ引き上げていく。どうにか全部上げきるとウエストと肋骨がギチッと締め付けられ、深く呼吸することができなくて息苦しく感じられた。これでさらに面をかぶったらどうなってしまうんだろうか。先が思いやられる。
 ドレスを着ると太ももにも新しい感触が生まれていた。スカートの裾が太ももをなでるのだ。
 体を揺すると、それに合わせてスカートも左右に揺れた。裾が太ももをサワサワとなでる感触が心地よく、まるで優しく愛撫されているみたいだ。

 股間の膨らみはスカートで隠せると思ったのに、ドレスを着終わって股間を確認すると大きくなったモノがスカートの前を押し上げていた。これでは一目で男だとバレてしまう。
 確か、園原さんが着ていたときのスカートはもっと膨らんでいたはずだ。スカートの下にはくヒラヒラ。パニエというんだったかな。あれが必要だ。フサフサした布地が幾重にも重なっていて、そのボリュームでスカートを円錐状に開かせるアイテム。目的のものはテーブルの上にあった。
 パニエをはくと、股間の膨らみはかさ上げされたスカートの下に隠れて全くわからなくなった。
 しかし同時に、スカートとは全く違う感触が太ももを襲った。ずっと刺激が強い。スカートの時は軽くなでるような優しい感触だったが、パニエがもたらす感触はもっと濃厚なものだった。
 幾重にも重ねられた布地が自らの重みで竿を包むようにのしかかり、複雑なヒダヒダとなって太ももをなでる感触。
 体を揺すったり上下に跳ねたりすると、パニエはフワフワと大きく揺れた。そしてそのたびに、布地は前後左右に揺れ動いて竿を揉みしだき、幾重にも重ねられたヒダヒダが揺らめきながら押し寄せてきて太ももをなで回した。
 今までに経験したことのない感触に、思わずしゃがみ込みそうになる。
 パニエなどという物は単にスカートを膨らませてシルエットをかわいくみせるためのアイテムだと思っていた。それなのに実際には、着る当人にとってこんなに気持ちの良いものだったなんて…… 女の子たちは、太ももにこんなにも心地の良い感触を味わっていたのか。
477萌味屋 ◆xriOMPkqNA
 パニエの感触があまりに気持ちよくて何度もスカートを揺らして楽しんでいると、突然ドアが開いて優香が顔を出した。
「どう? 着れた?」
「わっ! ば、ばか、いきなり開けるなよ!」
 まるで自慰の最中を目撃されたような気になって思わず前かがみになってしまう。
「あ、ごめん…… って、なんだ、もうだいたい着終わってるじゃない」
 口をとがらせて、優香が部屋に入ってくる。
「ブースにいなくていいのかよ」
「多恵子さんに見てもらってるわ。どれどれ……」
 優香は近寄ってきて俺の姿をしげしげと見回した。そんなにジロジロ見られると恥ずかしい。
 なにしろ女装した姿を、なじみの優香とはいえ女の子に間近でなめるように見つめられるのだ。しかも頭は肌色のタイツで覆われ、顔だけ出した奇妙な格好で。恥ずかしくて顔が火を噴きそうになる。
 優香は俺の胸を手の平でたたき、あきれたような声を上げた。
「何よ。胸、ペチャンコじゃない」
「男なんだから当たり前だろ」
「ダメよ。プラムは女の子なのよ? うっかりしてたわ。こんなんじゃ表に出せない」
 優香はアゴに手を当ててしばらく考えているようだったが、何か思い付いたのか、「ちょっと待ってて!」と言い残して部屋を飛び出していった。
 部屋に一人残された。優香の手の感触を思い出し、胸に手を当ててみる。確かにペチャンコだ。これじゃ男だとわかってしまう。まずいよなぁ。
 ふと心配になって下腹部もスカートの上から手でそっと押してみた。軽く触れただけではわからないが、押しつぶしていくとスカートの下に潜むものに手が触れた。周辺をなでて形をなぞっていくと、下腹部のあたりに固い棒状のものが突き出しているのが確認できる。
 見た目ではわからなくても、もし触られたら……。棒状のものがそそり立っているのが感触でわかってしまうんじゃないだろうか。できるだけ触られないように気をつけないと。

 しばらくして優香が戻ってきた。百円ショップのポリ袋を下げている。
「ひとっ走りして、あんたの胸を調達してきたわよ!」
 言うなりポリ袋からブラジャーを取り出した。それにタオルを詰めて乳房の形を作るというのだ。
 ドレスとタイツを両方とも上半身だけ脱いで、ブラをTシャツの上につける。優香が買ってきたのはホックのないスポーツタイプのブラだったので、着るのは簡単だった。まぁ胴回りがキツくて極端に丈の短いタンクトップだと思えばいい。
 次にテーブルの上に積んであるタオルを二つ丸めてブラのカップに収める。優香がバストの位置と形を調整した。ブラとTシャツの間に手を差し込んでタオルの位置をずらしたり、ブラの上から押さえたりして形を整えていく。その感触は当然俺の胸にも伝わって、なんだか優香に胸を揉まれているみたいだった。それにバストを覗き込んで形を確認する優香の顔がとても近い。
 揉まれているうちに鼻息が荒くなる。鼻息が優香の顔にかかってしまいそうで、懸命にこらえる。
「よし、こんなもんかな」
 優香はやっと満足したらしく、作り物のバストから手を離してくれた。
478萌味屋 ◆xriOMPkqNA
 優香に手伝ってもらいながら再びタイツとドレスを着て、リストバンドをつけ、ブーツを履いてプラムの衣装が完成した。
「首から下はすっかりプラムね」
 優香は俺の姿を頭のてっぺんからつま先まで眺めて言った。恥ずかしい。自分の格好を意識させるようなことを言わないでほしい。
 さらに優香は俺のふっくらとした作り物の胸を衣装の上からなでて口元をほころばせた。
「バストもちゃんとあるし」
 作り物なのに、自分の胸を触られているような奇妙な感じがした。

 後は面をかぶるだけだが、優香は思い出したように言った。
「あ、そうそう。面をかぶる前に、ポーズもいくつか覚えておかなきゃね」
 そういえばそうだ。園原さん演じるプラムが写真を撮られるときに何種類かのポーズを取っていたのを思い出す。せっかくのプニケアがポーズを決められないようでは格好がつかない。
 優香の指導で立ち方から始まって名乗りシーンや必殺技など、数種類のポーズを見よう見まねで練習した。

 ポーズがそれらしくできるようになったところで、いよいよプラムの面をかぶる。
 俺は椅子に腰掛け、優香はプラムの面を持つと俺の後ろに立った。
「じゃ、かぶせるよ」
 優香は面の後頭部を広げ、俺の頭の上に下ろした。
 頭を突っ込むように面の中に入れ、内装のスポンジにフィットさせる。顔に押しつけられたスポンジは衣装と同様冷え切っていてとても冷たかった。面の中に自分の呼吸音が響き、面の目の部分に開けられた覗き穴から外が見える。穴の位置が自分の目と合うように面の位置を調整した。いよいよ面をかぶったという実感が湧き、鼓動が高まる。
「前はちゃんと見える?」
「ばっちり」
 面の内部から垂れ下がったアゴ紐をとめ、後ろに伸ばされた紐をうなじの辺りで縛ると、顔が内装のスポンジにさらに強く押しつけられ、スポンジから水が染み出してきた。これで面がしっかりと固定されたわけだ。試しに首を振ってみても面は全くグラつかなかった。
 面の中はシャンプーのような、ほのかに甘い香りがした。園原さんのタイツのファスナーを下ろした時にかいだのと同じ匂いだ。園原さんが残した香りだと思うと、胸の鼓動がさらに高まっていくのを感じた。
479萌味屋 ◆xriOMPkqNA
 最後にツインテールの分け目を合わせて後頭部を閉じると、一気に密閉感が増した。息苦しさも増して自然に呼吸が深く長くなる。園原さんのプラムと部屋に二人きりだったときに面の中から聞こえた呼吸音を思い出した。今、優香には俺の呼吸音がはっきりと聞こえているだろう。
「どう? 息、苦しい?」
 俺の呼吸が深くなったことに気付いたのか、そんなことを聞いてくる。
「確かにちょっと息苦しいけど、たいしたことないよ。十分行ける」
 自分の声が面の中でこもって聞こえる。
「そう。じゃあ、ちょっと立ってみて」
 優香は俺が入ったプラムの手を取って立たせると、二、三歩離れて全身を観察した。
「へー…… いいじゃない。かっこいいよ」
 しばらく見惚れたように見つめた後、表情を崩して感嘆の声を上げた。
「女性キャラなのに、かっこいいって言われてもな」
「変な意味じゃなくて、美しくてしかもかっこいいというか…… 凛として女性らしいかっこよさよ」
 よかった。別に男っぽいってわけじゃないんだな。
 せっかくなのでさっき教わったポーズをしてみせると、
「おお! いいよいいよ、決まってる!」
 優香は喜んで手をたたいた。
 教わったポーズを次々に繰り出す。
 優香はポーズごとに歓声を上げたり、イマイチな時には手の位置や顔の向きなどを修正してくれたりした。
「あ、そうだ。ちょっとこっちへ来て」
 優香は俺を流しの前へ連れていった。流しの上には洗面用の鏡が掛かっていた。
「大きな鏡じゃなくて悪いけど…… どう、見える?」
 優香に促されて鏡の前に立つと、鏡の向こうにケア・プラムが現れた。俺が顔を動かすとプラムも同じ方向に顔を動かす。ポーズを取ると全身は映らないものの、鏡の向こうのプラムも同じポーズを決めた。
 プラムのかわいらしい姿に見とれてドキドキする。自分の姿のはずなのに、まだそれが信じられない。自分の動作に合わせて鏡の中のプラムがかわいらしく動くのが、とても不思議な感じがして興奮した。
 ポーズをいろいろ変えて鏡の中のプラムの反応を楽しむ。そのうちに段々と自分がケア・プラムになっていることが実感できてきた。
 俺が優香のほうへ向き直ると、優香は俺の、つまりプラムの手をとって言った。
「じゃ、表に出るわよ。いい? お店に出たら絶対しゃべっちゃダメよ。あんたはケア・プラムなんだからね!」
 俺は無言でうなずいた。
480萌味屋 ◆xriOMPkqNA

 優香に連れられて休憩室を出、店内との境にあるドアの前に立った。
この扉を開けたら、自分はもうケア・プラムになりきらなくてはならないのだ。緊張して、自分でも怖くなるほど鼓動が高まる。
 優香がゆっくりと扉を開けた。

 店内に一歩足を踏み入れると、周囲からどよめきが上がった。周りを見回すと、見知らぬ人たちが皆こちらを見ている。店内に居合わせた幾人かの子供たちも、キョトンとして遠巻きにこちらを見ている。皆の視線が自分に集中していて、それらの視線が突き刺さってくるように感じた。
 体が硬直する。人々の視線に射すくめられたようになって、身動きが取れなくなった。「なんとかしないと」という思いと「どうしたらいいんだ?」という思いがループになって頭の中をグルグルと回り、気持ちばかりが焦って、体が凍り付いたように動かない。その間もずっと人々の視線が注がれていて、いたたまれない気持ちになる。
 その時、優香が耳もとでささやいた。
「ほら、手を振って」
 その言葉に導かれるように手を持ち上げ、胸の前で振った。
 途端に周囲の空気が柔らかくなり、人々の視線が優しくなった。
「プラム―!」
 キョトンとしていた子供たちが笑顔になって駆け寄ってきた。かがんで子供たちと握手し、頭をなでた。
 子供たちの笑顔を見ているうちに、やっと冷静さを取り戻してきた。この子たちには俺がケア・プラムに見えている。俺は今、ケア・プラムになってるんだ。
 さっきは周囲の視線に身がすくんで動けなくなった。危ないところだったけれど、優香の一言に救われた。

 ひとしきり子供たちの相手をして、再び立ち上がった。
 自分はプラムだ。もう大丈夫。プラムになりきれる。
 周囲を見回した。もう視線は怖くなかった。周りのお客さんたちに改めて手を振った。今度は両手で、できるだけかわいらしく。
 肝を冷やしたけれど、どうにか第一歩を踏み出せたようだ。
481萌味屋 ◆xriOMPkqNA
 再び優香に手を引かれて、店内を通り抜けて表に向かう。
 表に出ると、店の前にいた子供たちと大人たちから喚声が上がった。
 今度は大丈夫だった。お店の前にいる大勢の人たちに対して、自分がプラムになったつもりで元気よく手を振ることができた。
 外に出た途端、ムッとするような夏の熱気が面の隙間から中に流れ込んできた。タイツに覆われた腕にも、外気の暑さと日差しの強さを感じる。だがドレスに覆われた胴体部分だけはまだ冷えきっていて、ひんやりと冷たい。
「プラムー!」
「プニケアー!」
 小さい子たちが駆け寄ってくる。
「ほらほら、走ったら危ないよ」
 優香がプラムの斜め前に立ち、声を掛ける。
 俺はその場にしゃがんで、真っ先に駆け寄ってきた男の子を抱き止めた。さらに女の子、男の子と、プラムに次々と駆け寄ってくる。腕の中はすぐに子供たちでいっぱいになった。
 園原さんが演じるプラムを午前中に見ていたから、どんなふうに振る舞えばいいのか大体はわかる。子供たちと握手をしたり、頭をなでたりしてあげる。抱き付いてくる子には優しくハグしてあげる。ただしハグするときには竿が当たらないように注意して。そして、親御さんたちの求めに応じて、ポーズをとって子供たちと一緒に写真に収まる。

 優香は外に出た後もしばらくはプラムのそばにいて、プラムに群がる子供たちの面倒を見てくれた。
 他の子たちに気後れしてプラムに近づけずにいる子がいれば、手を取ってプラムとふれあえるところまで連れてきたり、逆に無理に割り込もうとする子がいれば一旦待たせて、スペースが空いたら前に出して握手できるようにしたり、プラムの横や後ろにいる子はできるだけ前に来るようにしてくれたり。
 優香が子供たちを上手に導いてくれるおかげで、だいぶやりやすかった。

 厚地のドレスは外に出た直後こそ冷えきっていたが、少し間を置いてジワジワと暑さが染み込んできた。
 面の中の空気や手足を包むタイツはとうに熱くなっている。徐々に着ぐるみの中が蒸れてきた。
 だけど、面のおかげで頭に直射日光を浴びずにすむのだけは助かった。おかげで夏の熱い日差しに後頭部を焼かれるのはまぬがれていた。
482萌味屋 ◆xriOMPkqNA
 子供たちの相手をしながらも、プラムを演じることを意識した。
 園原さんの動きを思い出しながら、キャピキャピと元気に、かわいらしく振る舞う。
 元気に動くとそれだけ息苦しさが増した。面の中の熱くて湿った空気を必死で吸い込む。
「ハァ…ハァ…ハァ…」
 面の中に自分の激しい呼吸音が響く。
 プラムの面には目にも口にも穴が開いているのに、ちっとも空気が入れ替わっている気がしない。懸命に呼吸してもなかなか息苦しさが収まらず、まるで面の中にこもった同じ空気をただ繰り返し吸っているようだった。
 面の覗き穴から見える外の世界、すぐ目の前には新鮮な空気が広がっているのに、それを吸うことができない苦しみ。外の世界がひどく遠く感じられ、まるで自分が着ぐるみの中に閉じこめられているような気がしてくる。
 園原さんのプラムを休憩室に連れていったときに聞いた苦しげな呼吸音を思い出す。外では周りの音にかき消されて人々に気付かれることはないが、今俺が入っているプラムもさぞかし苦しげに呼吸していることだろう。

 ほんの短時間やっただけでも、外からの見た目ではわからない着ぐるみの大変さがわかってきた。呼吸の苦しさだけではない。視界の悪さにも苦労した。
 着ぐるみの面に開けられた覗き穴から見える範囲は狭くて、面を上下左右に動かさないと周囲の様子が把握できなかった。
 だがそんなことなどお構いなしに、子供たちは四方八方からプラムを取り囲んでくる。正面にいる子だけではなくて周りの子供たちにも気を配ってあげる必要があったし、体の向きを変えたり移動したりするときには、横や後ろにいる子にぶつからないように気をつけなければならなかった。

 登場した直後の騒ぎが落ち着いてきて、俺も子供たちを扱うコツがだいぶ掴めてきたころ、
「じゃ、プラム、みんなと遊んでいてね」
 優香はひらひらと手を振り、店頭のブースに引き上げていった。

 優香がそばにいる間は二人で一緒に子供たちの相手をしているような安心感があったが、優香が引き上げてから、急に孤独感が湧いてきた。
 周囲に大勢の人がいるのに孤独なのだ。優香だってそう遠くに行ったわけではない。十歩と離れていない販売ブースにいるのに。子供たちに抱き付かれながら、自分が着ぐるみに閉じ込められているという実感が増してきた。

 着ぐるみの中は外部から隔絶され、閉鎖された空間だった。
 面の覗き穴はまるで壁に開いた小さな節穴のようで、壁のこちら側と向こう側とをはっきりと隔てていた。面の外には新鮮な空気が広がっているのに、中に閉じ込められた人間には面の中のこもった空気しか吸うことが許されない。
 そしてタイツが全身を包み、中にいる者を外界から隔絶していた。外の世界にある物に触れたくても、タイツに隔てられて直接触れることはできない。タイツの締め付けから逃れようと身をよじっても、タイツはどこまでも肌にまとわり付いて締め付けてくる。
 だけど、そんなふうに中でどんなに息苦しさと締め付けに苦しんでいても、外からは中の様子がわからないのだ。周りの人に見えるのは笑顔で元気にふるまうプラムだけ……
 着ぐるみに閉じこめられた孤独感。
 着ぐるみの内側と外側、そのことにとても大きな隔たりを感じ、すぐ目の前に広がる外の世界が、とても遠いものに感じられた。
483萌味屋 ◆xriOMPkqNA
 後ろから子供が抱き付いてきた。その子の腕が下腹部に回り込み、スカートの上から竿が押しつぶされる。とっさにその腕を取って竿にかかる位置から上にずらし、そのまま腕を抱きかかえるようにして全身で揺すってあげると、その子は喜んでキャッキャと声を上げた。
 自分は男なのに、女の子の格好をして、女の子のように振る舞っている。それも大勢の人の前で。そのことに激しい羞恥心が湧き上がってくる。
 全身を着ぐるみに包んで自分を完全に覆い隠し、別の人物として振る舞う。
 子供たちはこちらをプラムだと思って見ている。大人たちもプラムを女性として見て、中に入っているのも女性だと思っているだろう。そう思うとたまらない快感を覚えた。

 外に出てから、いったいどれくらい時間が経ったのだろう。さっきまで冷えていたドレスは今やすっかり熱くなり、面の中の空気は熱気と湿気を帯びて、着ぐるみの中はすっかり蒸していた。
 蒸し暑くて、暑苦しくて、汗が後から後から溢れ出してくる。まるでスチームサウナに入っているようだった。しかしサウナとは違って、気楽に外に出るわけにはいかないのだ。
 サウナに耐えつつも、そういう素振りは全く見せずに元気な女の子を演じる。
 小さい子と握手するためにしゃがみ、立ち上がる、そのたびにパニエの布ひだが股間と太ももをなで上げた。
 スカートに覆われて見えないはずだとわかっていても、立ち上がるときには、股間の大きくなったモノを人前に突き出すような、恥ずかしい感覚に襲われる。
 体をひねれば衣装がまとわりついてウエストを締め付けてくる。
「ハァー… ハァー… ハァー…」
 深くて速い呼吸音が面の中に響いている。激しい動きのために息が荒くなったのか、興奮して息が荒くなったのか。息苦しささえも快感に思え始めていた。
 息が荒くなって、面の中ではうるさいほどに感じられる呼吸音も、屋外では周囲の音にかき消されて気付かれることはない。
 外からはわからない秘められた世界という感覚が、ますます興奮を高めた。
 園原さんはこの中でどんな気持ちで過ごしていたんだろう? 暑くて息苦しくて、汗にまみれて全身をグッショリと濡らして。
484萌味屋 ◆xriOMPkqNA
 タイツとドレスの締め付けに耐え、蒸し暑さに汗まみれになり、息苦しくて懸命に呼吸する。
 でもプラムの中にいる限り、どんなにつらくても、元気でかわいいプラムを演じ続けなければならないのだ。
 中の状況と外からの見た目とのギャップに興奮する。

 全身を包まれ、蒸し暑さと締め付けと息苦しさの中に閉じ込められているという感覚。
 タイツと衣装が肌にまとわりつく感触。
 自分を完全に覆い隠し、別の人物として振る舞う変身感覚。
 男なのに女性のふりをするという倒錯感。
 どんなにつらくても、つらそうなそぶりを見せずに元気さを装うという中と外のギャップ。
 今やそれら全てが快感になっていた。
 全身を快感に包まれて身もだえしてしまいそうだった。
 人前でそんな状態になっている自分が恥ずかしくてたまらないのに、それが外からはわからないということにもますます興奮した。

 園原さんもさっきまでこんな空間に独りで閉じ込められていたのだ。そう思ったとき、一つの疑問が頭に浮かんだ。園原さんも、着ぐるみに閉じ込められたこの感覚を快感に思っていたのだろうか?
 あの清楚でおとなしいイメージの園原さんが、もし快感に悶えながらプラムを演じていたのだとしたら…… 彼女に限ってそんなはずはないという思いと、いや、彼女もまた秘められた空間の中で快感を楽しんでいたのだ、という思いが交錯する。
 笑顔で元気に子供たちの相手をするプラムの面の内側で、顔中に汗を滴らせながら快感に頬を赤く染めて息を荒らげている園原さん…… 彼女の紅潮した汗まみれの顔を想像すると、たまらない気持ちになった。
485萌味屋 ◆xriOMPkqNA
 周りに集まった子供たちの頭をなでながらも、ますます興奮が高まっていくのを感じる。頭の中はすっかり園原さんのことでいっぱいになっていた。
 園原さんもこの空間に閉じ込められていたんだ。自分が今着ているこのプラムは、ついさっきまで園原さんが着ていたものだ。この面は園原さんが被っていた面、このタイツは園原さんを包んでいたタイツ、面の内装やタイツに浸みているのは園原さんの汗。
 そう思うと、まるで今自分が園原さんに包まれているような、園原さんと一体になっているかのような錯覚を覚えた。
 パニエが太ももをなでる感触は、まるで園原さんに優しく触られて、指先でサワサワと愛撫されているようだった。身をよじるたびに変化するウエストの締め付けは、両腕で抱きついて体を揺する園原さん。首筋にまとわり付く濡れたタイツの感触は、首筋に舌をはわせる園原さん…… 園原さんが全身で愛撫し、全身を絡みつかせて甘えてくる。
 あまりの気持ちよさにゾクゾクする。そのゾクゾク感が体の中で反響し合って全身に広がっていく……
 全身を痺れるような震えが走り、足腰の力が抜けてしゃがみ込みそうになった。

「プラム、どうしたの?」
 気がつくと、小さい男の子が不思議そうに下から覗き込んでいた。
 ハッとする。一瞬、状況がわからず頭の中が真っ白になったが、すぐに、自分がプラムの中に入ってプラムを演じていることを思い出した。
 いつの間にか、園原さんと二人だけの世界に入ってしまっていたようだ。
 男の子に「何でもない、大丈夫だよ」と伝えるつもりで小さくガッツポーズをしてみせる。それから頭をなでてあげると、男の子は喜んで笑顔になった。これで安心してくれたようだ。
 他にも不審に思った人はいないかと思ってさりげなく周りを見回す。面の中からの限られた視界では十分に見渡せなかったが、とりあえず視界に入る範囲では変な顔をしている人は見かけなかった。たぶん、たまたますぐそばにいた男の子だけがプラムの異変に気付いたのだろう。

 気を取り直し、再びプラムとして子供たちの相手を始める。
 それにしても、さっきのあの感覚は何だったんだろう。
 余韻というものだろうか、体にはまだ痺れるような心地よい感覚が残っていた。思い出しただけでもまたゾクゾクしてくる。
 最初は園原さんのことを考えて興奮が高まっていったのに、いつのまにか性的な興奮の段階を越えて、なにか別の領域に入り込んでしまったかのようだった。
 少なくとも、自分がこれまでに知っていた性的快感とは違っていた。男のシンボルを刺激して得られる、単純で即物的な快感とは全く異質のものだった。実際、今ので射精はしていない。
 まるで、心地よさに全身が包まれて、心までも包まれて、頭からつま先までがとろけていくような感覚だった。
 そういえば、女性が感じる性的快感、いわゆるオーガズムは、男性のそれとは全く異なるものなのだと聞いたことがある。物理的な刺激だけではなくて精神的要素が大きく、一瞬で終わってしまう男の快感とは違って、女性のそれは余韻が長く続くのだという。
 もしかすると、今自分が体験した感覚は女性のオーガズムに近いのではないだろうか。同じものかどうか本当のところはわからないが、少なくとも、その入り口を垣間見たような気がした。
 女性の姿になって女性のキャラクターを演じているうちに、体の中の、何か女性的な感覚のスイッチが入ってしまったのだろうか。
 いずれにしても、これまでに味わったことのない極上の快感だった。

(続く)
490萌味屋 ◆xriOMPkqNA

 いつの間にか、風が出ていた。そよ風程度の穏やかなものだったが、汗で濡れたタイツから風が気化熱を奪っていって、タイツが冷えて涼しく感じる。
 厚地のドレスに包まれた胴体部分には風の恩恵はないし、面の中にも風はほとんど入ってこず、中にこもった空気は依然として熱気と湿気がひどくて顔中汗まみれだったが、タイツが露出した首と手足が冷えるだけでもだいぶ楽になった。

 美幸さんが店から出てくるのが見えた。ブースにいる優香に話しかけているのが聞こえる。
「ご苦労さま。客足もだいぶ落ち着いてきたし、もし良かったら、宣伝を兼ねてプラムを連れて商店街をぐるっと回ってこない?」
「いいですね! プラムに訊いてきます」
 優香は立ち上がると、うーん、と大きく伸びをしてから、ブースを離れてこちらへ歩いてきた。
 プラムの顔を覗き込むようにしてささやく。
「商店街を一回りして来たいんだけど、どう?」
 最後の「どう?」は「どう? つらくない? まだプラムを着ていられる?」という意味だろう。風が立ってからはだいぶ楽になっていたので、こぶしを上下にブンブンと振り、顔をコクコクと上下させて、「行きたい行きたい!」とプラムが喜んでいる感じに動いてみた。
「よかった」
 優香は嬉しそうに笑うと、周りの子供たちに、
「プラムはこれからちょっとお出かけしてくるね」
 と言ってプラム(俺)の手を取った。

 子供たちとお客さんたちにお別れをし、ブースにいる美幸さんと多恵子さんに手を振って俺たちは店を離れた。
491萌味屋 ◆xriOMPkqNA

 着ぐるみを着て街を歩くのは、店の前で子供たちの相手をするのにはない恥ずかしさが感じられて、すごくドキドキする体験だった。
 店の前は特別セールの会場で一種のお祭り空間になっていたから、着ぐるみがいてもおかしくない雰囲気があった。
 でも商店街は普段のままで、そういう着ぐるみが普通いないような場所に着ぐるみがいると好奇の目を注がれる。そういう場所で着ぐるみを着ているのはまるで晒し者にされているようで、とても恥ずかしくて心臓はドキドキするし、スリルがあって背筋がゾクゾクした。
 一人ではとても歩けないと思う。でも優香が隣に寄り添うように一緒に歩いてくれたので安心感があった。
 車や自転車が近づいてくるときにも、優香が注意を促してプラムを守ってくれた。

 優香と一緒に商店街を歩きながら、お店にいる人や道行く人に手を振る。
 初めは驚いたり不審な目で見たりしている人たちも、プラムに手を振られると皆表情を崩し、中には手を振り返してくれる人も多かった。
 こうして人々の反応を見ていると、着ぐるみには人の心をなごませる力があるとつくづく思う。

 小さい子を見かけたら握手したり頭をなでてあげたりした。
 中には駆け寄って抱きついてくる子もいて、そんなときには膝をついて優しく抱きしめてあげる。
 時には呼び止められて写真を撮られたりもした。精一杯かわいくポーズを取る。

 喫茶店の前を通りかかったときに、スモークの入ったウインドーにプラムの姿が映った。
 休憩室の鏡は小さくて全身を見ることはできなかったから、プラムを着た自分の全身の姿を見るのはこれが初めてだった。
 ウインドーに映ったプラムの姿に見とれてしまう。とてもかわいくて、自分が入っているとは到底信じられない。
 でも、自分の手足を動かすとショーウインドーに映ったプラムも同じように手足を動かすのだ。
 改めて自分がプラムを操っていることを感じて興奮した。

 通りを歩いていると、
「暑いでしょう?」
 そう尋ねてくる人も多い。
 やはり「着ぐるみ=暑くて大変」というイメージが強いのだろう。
 そんなときは「全然暑くないもん!」というように首を振り、元気さをアピールするようにガッツポーズをしてみせた。
 もちろん中は蒸し風呂状態なのだが、プラムの立場としては暑くないという意味だ。こういうふうに暑いのに暑くないそぶりをするのも、何か倒錯的で、たまらない気持ちになる。
492萌味屋 ◆xriOMPkqNA
「おーすげー、プニケアじゃん!」
 前方から中学生くらいのガキたちが数人歩いてきた。
 嫌な感じがするものの、キャラクターを演じることに徹してかわいらしく手を振る。
「手ぇ振ってるぞ!」
「モエー!」
 ガキたちが面白がって騒いだ。
「おねーさん、いくつー?」
 近づいてきたガキたちに周りを囲まれる。
「どっから見てんのー?」
 ガキの一人が覗き穴を探して面をジロジロと覗き込んでくる。
 実際には面の中が見えるはずはないのだが、なんだか中を覗かれているようで、恥ずかしくて顔から汗が噴き出してくる。

 突然、太ももの後ろ側に風を感じた。
「ピンクだ!」
「でけえパンツ!」
「あ、こら!」
 優香が叫ぶ。スカートをめくられたのだ。思わず中腰になってスカートを押さえる。
 悪ガキたちは走って逃げたが、十メートルも離れると立ち止まり、距離を保ったままこちらの様子をうかがっている。
 優香は俺のスカートの乱れを直してくれ、
「もう! こんなことしちゃダメよ!」
 悪ガキたちに向かって叫んだ。

 それにしても、めくられたのが後ろでよかった。もし前をめくられていたら、大事な所が膨らんでいるのが丸見えになってしまうところだった!
 どっと体中から汗が噴き出す。嫌な汗だ。タイツがベトベトと体にまとわりつく。

 優香に促されて、悪ガキたちを無視して再び歩き始めた。
 優香が「あいつらのほうは見ちゃダメ」というので俺は後ろを振り向かないようにしていたが、優香が依然として後ろを気にするそぶりを見せているところを見ると、悪ガキたちはまだついて来ているようだ。彼らにしてみれば、いじりがいのあるおもちゃを見つけた気分なのだろう。
493萌味屋 ◆xriOMPkqNA
 商店街を進んでいくと、今度は女性に声をかけられた。
「あらまあ、べっぴんさんねえ」
 声のした方を見ると、割烹着を着たおばちゃんが一軒の店の前に立っている。
 年の頃は五十代くらいだろうか。店の看板には『銘茶 蓬莱園』と書いてある。お茶屋さんだ。
 おばちゃんの脇には台に載せたジュースサーバーがあり、緑色の液体が踊っていた。「アイスグリーンティー 100円」と書かれた貼り紙がしてある。
 おばちゃんを挟んでジュースサーバーと反対の側には、長さ一間ほどの縁台が置かれていた。その後ろのウインドーには、お茶のパッケージや茶器などが並んでいる。
 お店に近づくと、
「外国のかた?」
 おばちゃんが尋ねた。
「いえ、髪の毛は黄色いですけど、実は日本人なんですよ」
 そうだったのか。俺も初耳だった。というか、どこの国の人かなんて考えたこともなかった。だけどここは優香の話に合わせて大きくコクンとうなずいておく。
 この子はアニメのキャラクターで、ホビーショッブのセールで来ていて今は商店街を一周しているところで、といったようなことを優香はおばちゃんに話した。俺も話に合わせて身振り手振りを加える。おばちゃんはニコニコしたり、感心したりしながら話を聞いてくれた。

 まぁ少し休んでいきなさいよ、と言っておばちゃんは俺たちに店先の縁台を勧めた。縁台の隅に置かれていたウチワも俺と優香に一つずつ手渡す。
 優香は先にプラム(俺)を座らせてから隣に腰掛けた。縁台に座って、二人並んで店先の路上を眺める格好になる。道の向こう側では悪ガキたちがこちらをうかがっていたが、おばちゃんを警戒しているのか、こちらには近づいてこなかった。
 受け取ったウチワで顔をあおぐ。面に覆われた自分の顔には風は当たらないが、首筋に風が当たり、タイツが冷えて気持ちいい。
 パタパタとあおいでいると、突然反対側からも風が当たるのを感じた。見ると、優香がこちらに向かってウチワをあおいでいる。
「涼しい?」
 優香はこちらを覗き込むようにして尋ねた。
 うんうん、とうなずくと優香は嬉しそうに微笑んだ。
494萌味屋 ◆xriOMPkqNA
 そうこうしているうちに、おばちゃんがお盆に飲み物を載せて俺たちの前にやって来た。二つのプラスチックカップに入ったそれは翡翠にも似た深みのある緑色で、中に浮かぶ氷が涼しげだ。
「暑いでしょう? アイスグリーンティーよ。どうぞ」
「え、でも……」
「大丈夫、お代はいらないわ。頑張ってる子たちへのささやかなプレゼントよ」
「ありがとうございます。でも、すみません、この子は飲み物を飲めないんです」
 優香は申し訳なさそうに言った。
 確かに、着ぐるみでは飲むことができない。面を取れば飲めるが、人前で面を脱ぐわけにはいかなかった。
 目の前の飲み物にはストローが挿してあったが、プラムの口は布で塞がれているから、ストローも通らない。
「あら、そうなの? 大変ねぇ」
 おばさんは着ぐるみの立場を察してくれたらしい。こちらを見て気の毒そうに言う。
 それから優香に向かって「でも、あなただけでもいかが?」と尋ねた。
「えっと……」
 こちらをチラッと見る優香。そして、
「すみません。私だけ頂くわけにはいきませんから」
 そう言って頭を下げた。
 俺に遠慮して飲み物を断っている。その気遣いが嬉しかった。
 だけど、せっかく飲み物を用意していただいたのに、むげに断るのもおばちゃんに申し訳ない。俺は“私はいいからどうぞ飲んで飲んで!”とジェスチャーで優香に飲むように促した。
「え?……」
 優香はちょっと驚いたような顔をしたが、すぐに表情をやわらげて
「では、いただきます」
 よく冷えてコップに水滴がついたアイスグリーンティーを受け取った。
495萌味屋 ◆xriOMPkqNA
「悪いね」
 グリーンティーを一気に半分ほどすすった後、優香は俺だけに聞こえるくらいの小声でつぶやいた。
 そんなことないよ、と首を振って答え、頭をなでてやる。
「もう!」
 優香は照れて肩をぶつけてきた。
 またグリーンティーをすする。コップの中で氷が涼やかな音を立てた。しばらく沈黙が続いた後、優香がつぶやいた。
「うまくなったね」
 どういう意味かと思って優香を見る。
「初めのうちはおっかなびっくり動いているみたいで、ぎこちなくて、見ていてハラハラしたけど。でも、しばらくしたら慣れてきたのか動きがどんどん自然になってきて……」
 手元のグリーンティーに目を落としたままボソボソと話す優香。どうやら着ぐるみの演技のことらしい。
「あたしが商店街を回るか聞いたとき、『行く行く!』ってやったでしょ?」
 優香はこちらを向いて、手をグーにして上下に振ってみせた。
「あの時、中に誰が入っているかも忘れて、かわいい!って思っちゃった」
 本当に嬉しそうに微笑む優香。
 その笑顔にドキッとする。どうしよう。リアクションに困る。顔が熱くなってきて、思わず両手で頬を抱えてうつむいた。自分の頬じゃなくてプラムの頬だけど。
 優香の顔が緩む。顔がニヤケそうになるのをこらえているみたい。
「かわいいなぁもう!」
 優香に背中をバンバンたたかれた。
 男がかわいいってほめられるのもどうかと思うけど、俺は嬉しかった。
 それに、自分でも驚いたのだが、俺も優香のことをかわいいと感じ始めていた。これまで優香をそんなふうに思ったことなどなかったのに。
 優香がプラムへ向けるまなざしには、普段の俺に見せる表情にはない優しさと、はにかんだようなかわいらしさがあった。プラムの着ぐるみを着なければ優香のそんな表情を見ることはなかっただろう。これも着ぐるみの持つ力なのかもしれない。
 プラムの覗き穴を通して、改めて優香を眺める。ちょっと頬を赤らめた、女の子らしい柔らかい表情。優香も女の子なんだな、そう思った。
496萌味屋 ◆xriOMPkqNA
 茶屋の縁台で休んでいると、小さな女の子が駆け寄ってきた。髪の毛をツインテールにしてピンクのワンピースを着ている。
 優香と一緒にその子をあやしていると、母親だろう、若い女性が近づいてきて「この子と一緒に写真、よろしいですか?」と俺たちに尋ねた。
「どうぞどうぞ」
 優香は席を立つと女の子をプラムの膝の上に乗せた。
 俺は女の子が膝の上から落ちないように両手で支えたが、女の子は座り心地が悪いのか膝の上でモゾモゾとお尻を動かした。女の子の背中がパニエを押しつぶして竿に当たり、頭は作り物の胸にもたれかかる。不自然な感触を気付かれないかとドキドキしたが、女の子は気にする様子もなく座っている。
 携帯で写真を撮っている母親に優香は、
「お母さんもご一緒にいかがですか? 私が撮りますよ」
 と自分が座っていた場所を指し示した。
 母親が携帯を優香に渡してプラム(俺)の隣に腰掛けると、女の子は体を母親のほうへ向けようとまたモゾモゾと動き出した。
 竿がグリグリと押され、パニエが揺れ動いて太ももをなでる。下半身に受ける刺激を意識するとあそこが大きく固くなってきた。まずい。小さくなるように願って必死に意識をそらす。そうやって刺激に耐えながら女の子が姿勢を変えやすいように補助してあげるのは、とても精神力を消耗する作業だった。
 なんとか女の子の動きが収まり、女の子とそのお母さん,プラムの三人で写真に収まった。
 女の子を膝の上から下ろし、面の中でホッと一息つく。

 写真を撮っているうちにちょっとした人だかりができてきた。
 そばで様子を見ていた他の親子連れからも頼まれて一緒に写真に収まる。
 見物人の中には店頭で売っているアイスグリーンティーに興味を持つ人も出てきた。一人が注文すると、おばちゃんが叫んだ。
「あいよ、一杯100万円!」
 なんという古典的ギャグ! 縁台から滑り落ちそうになる。もちろん本当は100円だ。
 一人買ったのが呼び水となり、見物人が次々とアイスグリーンティーを買い求め始めた。
「あいよ、100万円!」
「二杯で200万円!」
 店先がにぎやかになってきた。
 プラム(俺)が座っている縁台は、本来はお客さんのために用意されたものだ。そろそろ移動することにしよう。
 優香が丁寧にお礼を言って、しゃべれない俺は何度もお辞儀して、お店を後にした。
 優香と手をつないで歩く。蓬莱園に長居している間にしびれを切らしたのか、悪ガキどもは姿を消していた。
 背後では、
「あいよ、一杯100万円!」
 おばちゃんの元気な声が響いていた。
497萌味屋 ◆xriOMPkqNA
 優香と手をつないで商店街を歩く。優香の手のぬくもりをタイツ越しに感じる。ちょっとしたデート気分だった。
 お店の人や道行く人に手を振る。
 周囲の人には、着ぐるみとそのサポートをしている女の子、というふうにしか見えないだろう。もちろんそれはそれで事実なのだが、着ている側の視点で見ると、実は男女が手をつないで歩いているのだ。
 でもそれは俺と優香だけが知っている秘密。周りの人に知られていないという秘め事の感覚と、もしそれがバレたらと思うスリル感とが混ざり合って、胸がドキドキしてくる。
 プラムは女性キャラだし、俺と優香の身長はほぼ同じだから、周りの人たちは着ぐるみの中に優香と同じくらいの背丈の女の子が入っていると思うだろう。そんな着ぐるみの中で、性を偽り、女性のふりを装う。そのことにひどく興奮を覚える。

 花屋では店員さんに呼び止められて、花に囲まれて写真を撮った。
 きれいな花々に囲まれてはしゃぐプラム。そんなプラムの仕草を見て店員さんたちも喜んでくれた。
 これが演じることの楽しさなのだろうか。プラムを演じて人々を喜ばせることがすっかり快感になっていた。

 花屋を出てしばらく進むと、車の往来が激しい幹線道路に出た。
 商店街はここで終わりだ。出発点のホビーショップは商店街のもう一方の端近くにあるので、商店街を回るというのは要するにホビーショップからここまでを往復することを意味する。
 回れ右をして、来た道をホビーショップへと戻る。帰りも左右のお店や道行く人に手を振りながら歩いた。
 さっき休ませてもらった蓬莱園の前を通ると、親子連れが縁台に座ってアイスグリーンティーを飲んでいた。店のおばちゃんがこちらに気付いて手を振ってくれる。手を振り返すと縁台の親子も笑顔で手を振ってくれた。
498萌味屋 ◆xriOMPkqNA
「あ、会長さん!」
 ホビーショップへ戻る途中で、優香は前方にいた初老の男性に向かって大きく手を振った。
 男性はこちらに気付くと、驚いたように、ちょっと目を大きくした。
 二人で男性の元に駆け寄る。
「優香ちゃん、この子はなんて子だい?」
「『フラッシュ! プニケア』っていうテレビアニメの主人公で、ケア・プラムっていう名前のキャラクターです。ホビーショップ・タカハシの夏休みセールにゲストで来てもらってるんですよ」
 ハキハキと手際よく説明する優香。うーん、よくデキた子だ。
「そういえば着ぐるみを出すって言っていたな。そうか、この子か」
 会長さんがプラムに目を向ける。
 ここは優香に合わせて、礼儀正しく、かつ元気よく振る舞おう。
 ピョコンと腰を九十度まで曲げて深々とお辞儀をする。頭を上げるとそこからさらに名乗りポーズを決めた。動作に合わせてツインテールとスカートが大きく揺れるのが感触でわかった。今のはかなりきれいに決まったと思う。自己採点だけど。
「たいしたもんだな。こういうキャラクターに来てもらうと、商店街が華やいでいいねぇ」
 相好を崩し、感心したように何度もうなずく会長さん。効果覿面だった。
「もしよろしければ、一緒に写真を撮りませんか?」
「残念だけど、カメラを持ってきていないよ」
「携帯のでよろしければ、あたしが撮りますよ。後でお送りします」
「そうかい? 悪いねぇ」
 会長さんの隣に立ち、決めポーズをとって写真に収まった。
「優香ちゃん、ありがとう。写真はいつでもいいよ」
 会長さんはそう言うと、今度は両手でプラムの手をガッチリと握って、
「お嬢さんもありがとう。暑くて大変だろうけど頑張ってね」
 労をねぎらってくださった。
 その言葉から察するに、プラムにではなくてその中にいるであろう女性に向けて話しかけているようだ。中身が女性だと思われていることに興奮する。
 俺もそれに応えるようにもう一方の手を女の子っぽく優しく会長さんの両手に重ねて、かわいくうなずいてみせた。
499萌味屋 ◆xriOMPkqNA
 手を振って会長さんと別れ、帰還の旅へと戻る。
「今の人はこの商店街の商店会長さん。喜んでもらえたね」
 優香が嬉しそうに言う。
「名乗りポーズを決めるなんて、やるじゃない! 会長さん驚いてたわよ? きっと中に本職の役者さんが入ってると思ったんじゃないかな」
 それはいくらなんでも大げさだろう。気恥ずかしくなる。
 でも優香の言葉が嬉しかったので、「どんと来い!」という感じに胸をたたいて見せると、
「もう。すっかりプラムが板についちゃったわね」
 笑って人差し指で胸をつんとつつかれた。


 行く手に、やっとホビーショップ・タカハシの店先が近づいてきた。
 思えば長い旅路だった。
 いや、距離にしたら端から端までほんの三百メートル程度、往復で六百メートルくらいしか歩いてないんだけど。途中でいろいろイベントが発生したせいだろう。精神的にかなり消耗した。

 戻ってきてみると驚いたことに、タカハシの店先で俺たちを迎えてくれたのは、店のロゴが入ったTシャツを着た園原さんの笑顔だった。
「おかえりなさい」
「もう出て大丈夫なの?」
 優香が尋ねると、
「うん、だいぶ良くなったから」
 そう答える園原さんの顔は、まだ心なしか上気して、なんだかフワフワした感じだった。
500萌味屋 ◆xriOMPkqNA
 優香は販売ブースに戻り、俺は店先で遊んでいる子供たちの相手に戻った。
 日が傾いて、駐車スペースの三分の一ほどが隣の建物で日陰になっていた。空気も昼頃ほど暑くはないし、風もあって日陰にいるとずいぶん過ごしやすかった。
 もう着ぐるみの中にいてもそれほど暑いとは感じなかった。ずっと着ていて暑さに慣れてしまったということもあるのかもしれない。

 園原さんは優香と多恵子さんと一緒にブースの仕事をしていたが、優香と何か話した後、ブースを出てこちらへやってきた。右手にスティック状のおもちゃを持っている。
 園原さんはプラム(俺)と子供たちの前に来ると、手にしたおもちゃを見せていった。
「プラムちゃん、みんな、一緒に遊びましょ!」
 おもちゃは長さ30センチくらいの白いスティック状で、先端とグリップの両端が水色になっていた。手元にはピンクのダイヤルとボタンが付いている。ブースで売っている商品の一つだ。確か、『プニケア・ツインズ』のおもちゃだったと思う。
 園原さんと一緒に遊べるのはすごく嬉しい。俺(プラム)はかわいく「うんうん」とうなずいた。でも、どうやって遊ぶんだろう?
 すると園原さんはおもむろにおもちゃを頭上にかかげて叫んだ。
「プニケア・シャイニング・バブル・レボリューション!」
 スティックから「♪ピロピロリン、ピロピロリン、シャンシャンシャンシャ~ン!」と音がして、その直後に先端からシャボン玉が次々と吹き出してきた。
 子供たちが歓声を上げる。
 園原さんは身を翻しながらスティックをクルクルと回した。先端から吹き出すシャボン玉がスティックの軌跡を描き、まるで新体操のリボン競技を見るようだ。シャボン玉はゆるやかな風に乗って辺り一面に広がっていき、日の光を浴びてキラキラと七色に輝いた。
 シャボン玉が子供たちを包み、子供たちは飛んでくるシャボン玉にビックリしたり、空中に漂うシャボン玉をつかもうとしたりしてキャッキャと声を上げてはしゃいだ。プラムも子供たちの輪の中に入って一緒にはしゃぐ。
 園原さんはその様子を見ながら楽しそうにスティックを振った。
501萌味屋 ◆xriOMPkqNA
 ひとしきり遊んでシャボン液が尽きると、園原さんはスティックをブースに置いて戻ってきた。園原さんのデモンストレーションの効果もあってスティックは結構売れているようだ。
 園原さんはもうすっかり子供たちになつかれていて、その後は一緒に子供たちの遊び相手をして過ごした。
 じゃれついてくる子供たちの相手をしながら、面の視界の隅にチラチラと園原さんの姿をとらえる。
 園原さんはすぐ目の前にしゃがんで子供たちをあやしている。その様子は園原さんが着ていたときのプラムの仕草を思い出させたけれども、今の園原さんは生身の姿だ。
 タイツに包まれていない園原さんの生の腕はほっそりとしてしなやかで、キュロットスカートからは健康的な太ももが覗いている。Tシャツに包まれた胸は優香よりも控えめだけど貧弱と言うほどではなく、小柄な園原さんの体格に似合う、ほどよい膨らみ具合だった。
 後ろで束ねた栗色の髪がフワフワと揺れ、その下から覗く園原さんのうなじにゾクゾクした。
 プラム(俺)が園原さんの方を向くと、園原さんも気付いてプラムに笑いかけてくれる。その笑顔がとてもかわいらしくて胸が熱くなった。


 夕方になり、いよいよプラムが退場することになった。
「でもその前に……」
 と園原さん。プラムと一緒に写真を撮りたいという。自分の携帯を優香に渡すと、園原さんはプラムの横に立った。
 優香が写真を撮ろうと携帯を構えると、園原さんが自分の腕をプラムの腕に絡ませてきた。
 園原さんの胸が腕に押しつけられる。柔らかい…… マシュマロのようにフニフニとした感触。
 園原さんと腕を組んでいる! ドキドキする。腕に意識が集中して、まるで全身が腕になったようだ。
 園原さんは俺とではなくプラムと腕を組んでいるつもりなんだろうけど、それでもすごく嬉しかった。
「琴美ったら。プラムが困ってるわよ」
 ニヤニヤしながらシャッターを切る優香。動揺しているのがバッチリ見抜かれていた。
 撮り終わると優香は、
「今度はあたしね!」
 と言って園原さんと交代した。
 園原さんが優香の携帯を構えると、優香が首にしがみついてきた。優香の胸がタオルの偽乳越しに押しつけられる。さらに、優香がプラムの頬に自分の頬を押し付けるのを感じた。
「もう、優香ちゃんのほうが大胆じゃない!」
 園原さんは苦笑いしながらシャッターを切った。
502萌味屋 ◆xriOMPkqNA

 園原さんに連れられて休憩室に戻った。
 椅子に座って面を外すと、とたんに部屋の冷えた空気が流れ込んできた。
「ふー」
 解放感から大きく溜め息をつく。
「お疲れさま。暑かったでしょう? はい、どうぞ」
 部屋の隅にある冷蔵庫から園原さんがスポーツドリンクを取り出し、コップに注いで出してくれた。
「ありがとう」
 一気に飲み干す。冷たいドリンクが喉をうるおし、体に内側から染み込んでいく感じだ。園原さんは空になったコップにまたスポーツドリンクを注いでくれた。
 二杯目を飲んでいると、
「ごめんなさい。あたしのせいで、岡崎くんにプラムを着てもらうことになっちゃって」
 園原さんがうつむいて言った。
「いいよ。着ぐるみを着ることになって最初はビックリしたけど、楽しかったし」
「でも……」
「気にしなくていいよ。むしろ、こんなすごい経験ができて感謝してるくらいだよ」
「え……?」
 園原さんは顔を上げた。
「暑いし息苦しいしで確かに大変だったけど、プラムの着ぐるみを着てると子供も大人もみんながプラムとして接してくれるんだ。プラムとして子供たちの相手をするのがすごく楽しかった」
 俺が言うと、園原さんは表情をやわらげた。
「わかります。あたしも、子供たちがプラムとして接してくれるのがとても楽しくて、プラムを演じることでみんなが喜んでくれるのが嬉しくて。プラムに接すると、みんな笑顔になってくれるんですよね。まるで、着ぐるみには人の心をなごませる魔法の力があるみたい……」
 魔法か。うまいことを言う。
 商店街で人々に手を振ったときのことを思い出した。プラムが手を振るたびに人々が次々に笑顔になっていく様子は、まるで魔法を掛けているようだった。
503萌味屋 ◆xriOMPkqNA
「園原さんのプラム、すごくかわいかったよ。園原さんの優しさがプラムの動きに現れてた」
「そういってもらえると嬉しいです」
 園原さんの頬に赤みが差す。
「でも、本当はあたしじゃ小さすぎるんですよね。岡崎くんのほうが身長があってプラムにピッタリです。あたし、岡崎くんのプラムと一緒に子供たちと遊びながら、プラムのことをほれぼれと見てたんですよ。すらっとしててとても素敵でした。それにプラムになりきってて、本当にプラムがアニメの世界から抜け出してきたみたいでしたよ」
 あのとき俺は園原さんのことを気にしてチラチラと見ていたけど、園原さんのほうもそんな風に見ていたなんて。嬉しいけど恥ずかしい。
「そんなふうに褒められると恥ずかしいな。でもこれで、俺にもなんとか園原さんの代役が務まったかな」
「代役だなんてそんな! 岡崎くんのほうが断然素敵でしたもん…… そうですね、あたしたちは仲間ですよ。プラム仲間です!」
 園原さんは満面の笑顔で宣言した。

 俺が園原さんにしたように、園原さんも俺が着ているドレスとタイツのファスナーを下ろしてくれた。
 タイツのファスナーを下ろすと、下につけているブラジャーに園原さんが気付いた。
「え? これって……」
 変な誤解をされないように、プラムの胸を作るために優香が買ってきてくれたのだと慌てて説明する。園原さんはすぐに納得してくれたけれど、なんだか顔を赤らめていた。
 園原さんが部屋を出た後、俺もプラムの衣装を脱いで元の服装に着替え、外の販売ブースに戻った。
504萌味屋 ◆xriOMPkqNA
 ブースではもう販売を終了し、優香・多恵子さん・園原さんの女性陣三人が飾り付けの撤去や売れ残った商品の片付けを行っていた。
「孝史、これ持っていって」
「孝史くん、これもお願い」
 優香と多恵子さんの指示が飛ぶ。
 商品を入れた段ボール箱を倉庫へ運ぶ。販売ではあまり役に立てなかったから、せめてこういうところで頑張らないとな。
 ブースと倉庫の間を往復していると、
「あの、岡崎くん……」
 園原さんが俺のTシャツのすそを引っ張って呼び止めた。振り向くと、園原さんはうつむいて、恥ずかしそうに上目遣いで言った。
「あの、あのね…… 岡崎くんのこと、あたしも下の名前で呼んでいい?」
 優香だけでなく多恵子さんまでが俺のことを下の名前で呼ぶので、自分だけ上の名前で呼んでいるのが変に思えてきたのだろう。俺としては大歓迎だ。
「もちろん。俺も園原さんのこと、下の名前で呼ぶよ」
「うん」
 園原さんは頬を赤らめてうなずいた。
 段ボール箱を運びながら、早速呼んでみる。
「琴美ちゃん」
「ん、何?」
「実際に呼んでみたくなって」
「むー……」
 すねたように口をとがらせる琴美ちゃん。でもすぐに笑顔になり、
「じゃあ、あたしも。孝史くん」
「何? 琴美ちゃん」
「呼んでみただけ!」
 なんとなくお互いに見つめ合う。恥ずかしくて、どちらからともなく笑いだした。琴美ちゃんの笑顔はとてもかわいらしかった。

 商品を片づけた後にテントをたたんで、本日のバイトが終了した。
505萌味屋 ◆xriOMPkqNA

 夏休み最初の登校日。
 教室に足を踏み入れた俺を琴美ちゃんの柔和な笑顔が迎えてくれた。
「おはよう!」
 琴美ちゃんの明るい声に俺も応える。
「おはよう。ひさしぶり」
 あのバイト以来、直接顔を合わせるのは久しぶりだった。
 教室では周囲の目もあって、お互い気恥ずかしくて他人行儀な挨拶しか交わせなかった。けれど琴美ちゃんの表情からは、単なるクラスメート同士ではなく、もっと親密に通じ合うものを感じた。

 思わぬいきさつで生まれた、一日だけの着ぐるみ体験。
 だけどその強烈な体験は、その後もしばらくの間、繰り返し思い出しては体が熱くなるほどのものだった。
 面を脱いだときの、汗にまみれて上気した琴美ちゃんの顔。タイツに全身を包まれて締め付けられる感覚。パニエの布ひだが太ももをなでる感触。
 今こうして思い出しても体が熱くなってくる。

 ホームルームが始まるまでにまだ時間がある。
 俺は教室を出て、廊下の窓枠にもたれ掛かって外を眺めた。
 校舎裏はうるさいほどのセミの合唱に包まれ、ヒマラヤスギの梢の向こうには、雲一つない夏空が広がっていた。
 今日も暑くなりそうだ。
 俺は携帯を開いた。待ち受け画面には、ケア・プラムと腕を組んで微笑む琴美ちゃんが写っていた。

(終わり)
506萌味屋 ◆xriOMPkqNA
このたび小説を投稿させて頂きました、萌味屋(もえみや)です。
自分が着ぐるみに感じるフェチ要素をいろいろ詰め込んでいるうちに
かなり長い作品になってしまいました。
楽しんでいただけたら幸いです。
514萌味屋 ◆xriOMPkqNA
着ぐるみフェチなシチュエーションをライトな恋愛ストーリーに
絡めて描くというのがこの作品で目指したことでした。
喜んでいただけてとっても嬉しいです!

続編も執筆中です。
ただ、フェチ要素としては主要なものは今回の作品で大体やってしまいましたので
続編では趣向を変えていくつもりです。
いつ出来上がるかわかりませんのであまり期待しないでください(;´Д`)